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デリカシーの機微が問われる現代社会のさまざまな局面に、ぼんやりと警鐘を鳴らす無神経なコラム。

デリカシーには貸しがある

第22回 「噛まぬなら落としてしまおうホトトギス」

第22回 「噛まぬなら落としてしまおうホトトギス」

どうも、2週間ぶりです。

ご存知の通りこのコラムは、世にはびこるデリカシーという名の
偽善と欺瞞について考える、熱血硬派な社会派コラムなのであって。

当然、その執筆者である私は、デリカシーの粋を知り尽くし、
デリケートな所のかゆみを自分で治せる、デリカシーの猛者です。
人は私のことを陰でフェミニーナ軟膏と呼んで慕っています。

しかし、やんぬるかな、そんな私も「締め切り」に対する
デリカシーだけは、すこぶる甘い。
それはもう、中学生男子の将来設計のように甘い。
その甘さたるや、「マックスコーヒーだと思って飲んだら、
福田の締め切りだった
」と勘違いされるほどである。

そして、喩えに凝るあまり、今、多くの読者を理解の対岸へ
置いてきぼりにしている気がするのですが、みなさん大丈夫でしょうか。
つまらなくてもこれが俺の持ち味なので、がんばって付いてきてください

ともかく、いくらこの連載のタイトルが
『気まぐれフクスケのぼちぼち更新コラム』だからといって、
さすがに2週連続で更新を落とすと、
『大塚ニューコーポ』での私の立場がなくなる。
ていうか、もうほとんどない。

つい先日も、8月更新予定の単発企画の制作をしていたのだが、
さまざまなシチュエーションの下、外で写真を撮るというこの企画で、
私は被写体として脱いだり裸になったり裸の上に食べ物を乗せられたり
なんだかやたらと体を張らされるモルモット的な立場だった。

なんだか最近こういう役回りが多いな…とは思っていたが、
よく考えたらこれは要するに、「言葉で笑いをとれない能無しは、
体を張って笑いをとるしかないぞ
」という戦力外通告だったのか。

やばいなあ。
じわじわと崖っぷちに追い詰められてきている気がするのよ。
周囲の顔が片平なぎさに見える瞬間だ。

差別的なことを言うつもりはないけど、現実問題として、
頭を使って笑いを取る人間は、体を張って笑いを取る人間を見くびっていると思うわけ。
つまり、知らず知らずのうちに体を張らされているということは、
マイルドにフェードをかけながら引導を渡されているのと同じことだ。
それだけは、ええいああ、なんとしても避けたい。

おもしろきゃいいとは思っているが、対等じゃないのは嫌だ。
少なくとも、裸になったり痛がったりして笑わせるのは、俺のガラじゃない。
だから今はまだ、がんばって頭と言葉を使ってコラムを書こうと思う。

とはいえ、私が締め切りや計画さえきっちり守る人間だったら、
事態はもう少しどうにかなっていると思うのだ。
なぜ、なーぜこんなにも締め切りを守れないのかなこの俺様は!
という問題は、下山事件以上に戦後史最大のミステリーなのである。

昔はそれでも、なんとかなってたのよ。
さながら窮鼠が猫を噛むように、火事場の天才的能力が発揮できる
ギリギリの「追いつめられ」のデッドラインを心得ていたもの。
それが、いつしか追いつめられすぎて、猫にのどぶえを
噛み切られてジ・エンド
になることが増えてきた。

そうなのだ。
チョロQが、一度うしろに引かなければ走れないように、
私は生まれてこの方、追いつめられることなく、
自分から猫を噛みにいったことなんてないのかもしれない。
だとしたら、ちょうどいい追いつめられ方のタイミングを
見きわめられなくなってきた勘の鈍りは、私にとって死活問題だ。

「締め切りを守って、なおかつおもしろいものを書く」ことが両立できない人間は、
「締め切りを優先させて、そこそこのものを書く」か、
「締め切りは破るけど、超おもしろいものを書く」か、
どちらかしか、生きる道がない。
そして後者の道は、売れるか偉くなるかしないと認められないのです。
人は誰もがリリー・フランキーにはなれないのですからしてー!

窮鼠にしかなれないのならば、計画的に窮鼠になるしかない。
だったら私は、「窮鼠になるテク」を磨きたい。
窮鼠初段になりたい。

誰か、『猫に噛みつく窮鼠力』というタイトルで
ビジネス書でも出してくれないでしょうか。
もしくは、『片平なぎさは、なぜ崖に犯人を追いつめるのか』という新書でもいいですから。

そんなわけで今とにかく私は、
遅れたコンテンツの更新を取り戻すために、
次の更新がさらにまた滞っていくという悪循環の回し車を、
カラカラカラカラ走っているハムスター
である。

ああ、今なら連載時の作画の乱れを単行本収録時に直すために、
本誌の連載を休んでいた富樫義博先生の気持ちがわかる。
カラカラわかる。

モルモットになったりネズミになったりハムスターになったり、
どうにもげっ歯目なキャラから抜け出せない私なのだった。
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第21回 「デブは心の病気です」

第21回 「デブは心の病気です」

この先の人生、たとえどんな事故や難病に見舞われようとも、
これだけは絶対に自分とは無縁だろうと思っているものがある。

デブだ。

まさか自分がデブにはならないだろうという強い確信があるのである。
これは何も自分の自己管理を過信しているのではなく、
それ以前に、管理しなくても太らないし、太れない体質なのだ。

生まれてこの方、脂肪がつかない代わりに筋肉もない
やせぎすの体型で、そのフォルムは限りなくエヴァンゲリオンに近いし、
胸板もベニヤのように薄く、“平成の歩く細うで繁盛記”と呼ばれている。

空から女の子が降ってきても、腕力がないので受け止めきれず、
薄い胸板をすり抜けてしまい、落として死なせてしまうだろう。
もちろん、ラピュタは一生見つからない

そんな私だから、世間のほとんどの人が強迫観念のように
抱いている「デブフォビア(デブ恐怖)」を感じたことがない。
そもそも、自分がデブになるというビジョンが思い描けないのだ。
“日本経済再生のシナリオ”のほうがまだ思い描けるくらいに、
どうすればデブになるかがわからない。

①夜遅くに②高カロリーなものを③大量に食べるという
「デブ三原則」を遵守した生活を送っているし、運動もまったくしない。
それどころか、食品のカロリー表示というものを気にしたことが、まずない。
見向きもしない。
にもかかわらず、私が常にエヴァンゲリオン体型をキープしているのは、
身も蓋もない言い方をしてしまえば、「体質だ」ということになる。
逆に、普通に食べているだけなのに太りやすい体質の人も当然いるわけだ。

で、ここで問題発生よ。
アメリカでは、太っていることを理由に自己管理能力が低いなどとレッテルを貼られ、
人事査定でマイナス評価が下されたり、リストラの対象になることもあるという。
だとすれば、私のように体型にこそ表れないが、考え方にデブフラグが立ちまくっている「心のデブ」も、同様に「問題アリ」とジャッジを下されるべきである。

ところが、断罪されるのはいつだって目に見える「フィジカルデブ」ばかり。
そんな彼らの脂肪の影に隠れて、心を肥え太らせている「メンタルデブ」が断罪されないのは、ちとアンフェアではないだろうか。

そう、デブも心の時代なのである。

そのことを象徴するかのように、
私の友人には、さして太っているわけではないのに
完全に「デブキャラ」扱いされてしまう人物がいる。
何を隠そう、大塚ニューコーポのますらおでぶ、その人である。

彼は、がっしりした体格ではあるが、
取り立てて騒ぐほど太っているわけではないし、
最近は実際にダイエットにも成功して、
数字的にはもはやまったくもってデブではない。

しかし、たとえば
「すべての食べ物の中でコーラが一番好き」
「気になるラーメン店に行くためだけに外出することを厭わない」
「激しい運動をすると、疲れるよりも先に物が食べたくなる」
「食後に水が飲みたくなるように、口が自然と菓子パンを欲する
などといった逸話の数々が、彼の過去をつつくと
肉汁のようにあふれ出すにつけても、

またあるいは、学生時代に金がなくなり、
食べ物が底を尽きて困窮するあまり、
「ティッシュにぽん酢をつけて食べた」という
伝説的エピソードを聞くにつけても、

人をデブキャラたらしめているのは、
体型ではなくその考え方にある、としみじみ思うのである。

そんな私も、人のことは言えない。
生活習慣や心がけは、間違いなくメンタルデブそのもの。
こうなったらいっそのこと、
体重55キロでありながら「デブ」と呼ばれることを目指して、
「デブは脂肪ではない、思想だ」を合言葉に日々を生きようと思う。

最近、ちょっと脇腹がついてきたような気がするのは、もちろん気のせいである。
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第20回 「残り物には汁がある」

第20回 残り物には汁がある

料理の残り汁にご飯を入れて食べるのが好きだ。

特に、カップラーメンや、ポトフなどの煮込み料理で、
メインとなる麺や具を食べ終わったあとのスープに目がない。

B級グルメにも満たないG(ゲス)級グルメであることは自覚しているが、
その反面、「一人で食事するときはみんなやってるんでしょ?」と
半ば当然のように思っていたので、私のこの食習慣に対して
「意地きたない」「貧乏くさい」と、
道端に吐き捨てられたタンを見るような目で
非難されたときには、正直、面食らった。

え、だって、汁物の料理って、その残り汁にこそ旨みが凝縮されているわけで、
具材を食べきったことは単なる通過儀礼にすぎないというか、
私にとっては「むしろここからがメインイベントだ」くらいの気持ちなのである。
汁こそが本番。
決して、AV男優の下克上の話ではない。


とにかく、私の「残汁道(ざんじるどう)」は筋金入りだ。

「なか卯」でカレーうどんを頼むときには、わざわざ単品でライスも頼み、
うどんを食べ終わった後の残り汁にライスを入れて二度楽しむ。

鶏のから揚げに甘辛い南蛮ソースがかかっていれば、
から揚げはなるべくソースを落として食べ、
余ったソースを寄せ集めてご飯を浸して食べる。

居酒屋で食べ終わった牛すじ煮込みの皿を下げられそうになると、
「まだこの汁が残ってるでしょうがあ!」(田中邦衛のマネで)と
本気で引き止めたくなり、名残惜しさを2分くらい引きずる。

家にいてカップラーメンくらいしか食べるものがないとき、
「ご飯が炊けていない」ことを理由に(残り汁にご飯が入れられない)
カップラーメンを食べること自体をやめたりする。

ことほどさように、「残り汁にご飯を浸す」は、
私にとって「ズボンに足を通す」と同じくらい自然なことなのに、
やんぬるかな、「残汁道」に世間の風は冷たい。

そもそも、「残り汁」という呼び名からして
「残ってるわけじゃねえよ」という憤りを感じてやまないのだ俺は。
「残ったのではない、残したのだ」という、
かの有名なダンテの言葉をあなた方は知らないのか。

ま、そんな言葉はないので知らなくても仕方ないわけだが、
とにかく、ラーメンに替え玉を入れることが、
鍋の最後を“おじや”で締めることが、
何の抵抗もなく当たり前のように受け入れられているのに、
なぜカップラーメンや他の料理の残り汁にご飯を入れることだけが、
こんなにも嫌悪の目で見られなければいけないのか、私には理解できない。

それにしても、なぜ私はときにわざと汁を余らせてまで、
残り汁でご飯を食べることに執着するのだろうか。
たぶん、私の中の基本思想として、
「美味いものは白飯で食いたい」という意識があるのだと思う。

たとえば、焼肉に行くと「ライスを頼んでしまうと、そのぶん肉が
食えなくなってもったいない」みたいな考え方をする人がいるが、
私の場合、たとえ肉効率(米や小麦で満腹にしてしまうのではなく、なるべく
コストパフォーマンスが高い肉で腹を満たそうという配分の割合)は下がっても、
「こんなにご飯と相性のいい肉があるのに、一緒に飯を
食べないことのほうがもったいない」と考え、ライスを頼んでしまう。

そう。
まだそれでご飯が食えるだけの味があるものを、
残したり捨てたりしてしまうのは、もったいない気がするのである。

もっと突き詰めて考えると、私は「おかずとご飯の関係」というものを、心のどこかで
「濃い味の料理は、味をご飯でうすく引き伸ばすことで長持ちさせて食べている」
と考えているようなふしがあり、だから濃い味の料理をご飯なしでそのまま食べるのは、
「味を余らせてしまって、もったいない」ということなのだと思う。

だとすると、実体のない「味」というものに対する
私のせこさ、もったいなさがり加減には常軌を逸したものがあり、
「意地きたない」「貧乏くさい」という周囲の非難も
あながち的外れではないのであった。

でも、美味しいよ、残り汁。

※近日中に、この「残り汁がうまい」という主張だけで、ONCのコンテンツを作るつもりなので、そちらのほうも動向を刮目していただきたい。
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第19回 「一発校了チキンレース」

第19回 一発校了チキンレース

ここ数週間、私がこの連載を落とすほどにしんどい思いをして
泣きながら編集していたムックの制作が、ここにきてようやく、
おかげさまで無事に一発校了で終わりを迎えようとしている。

編集者にとって「一発校了」とは、
その語感からもうすうす想像がつくように、
ダルビッシュにとっての「一発着床」と同じくらい
ジ・エンドな
恐ろしい言葉であって、

意味を知らない非・出版業界の方にあえて説明するならば、
「初めて作った料理を一度も味見をしないで王様に出す」
「ブレーキが利くか確認しないままチキンレースに参加する」
「絶対にチェンジができない出張ヘルス」
みたいなことだと思ってほしい。
厳密にいうと全く違うが、少なくとも気分的には、そんな感じだ。

要するにものすごくアクロバティック。
しかし、そのアクロバティックさ加減は、
シルク・ドゥ・ソレイユというよりは
電撃ネットワークにきわめて近いものであって、
大事なのは技術よりも、口の中で爆竹を鳴らす勇気。
そう、その「勇気」こそが一発校了に必要なものだ。

そんな、帰りのガソリンを積まない神風特攻隊のような志で、
私が一体どんな高尚な学術書を作っていたのかといえば、
インターネットの炎上や祭りといった現象の事例を集め、
その悲惨さ可哀想さあられもなさを、人の不幸を覗き見したい
野次馬精神でもって楽しもうという身も蓋もない企画であって、
当然、デリカシーもへったくれもない下衆な本である
(もちろんこれは貶しているのでなく、「下衆に徹しているから素晴らしいのだ」というフェーズが賛辞として通用する世界観や価値観があるってことくらい、懸命な読者はわかってくれるだろうと思う。実際、すごくおもしろいし、これまで自分が編集を手がけた本の中でもお気に入りの一冊だ。買え!)。

とにかく、書店で「デリカシー」と「ノンデリカシー」のコーナーがあったら、
確実に「ノンデリカシー」のコーナーの書棚に置かれるような
(めんどくさいからツッコミ不要)この本の編集作業を通して、
私が心底みなさんに残したいと思ったメッセージはたったひとつ。

みんな、ハメ撮りだけはダメ!ゼッタイ!!

あれだけ苦労したのに死ぬほどうすっぺらいメッセージしか残せなかったが、
これはでも本当に、マジで守ってほしい。

誌面では、ファイル共有ソフトがウイルスに感染していたため、
彼女や浮気相手とのファックシーンを撮影した画像や動画が
丸ごと流出してしまったカップルを紹介しているのだが、

心あるネットユーザーのたゆまぬ努力の甲斐あって、
その男女の実名や住所、勤務地が探り当てられたり、
職場に電話をかけられたり、果ては実家に押しかけて
写真まで撮られたりしておるのですよ。

恨みつらみのまったくない、あまつさえ面識すらない
一般人の素人カップルに対して、
「なに? あんたらゾルゲ?」
というほどの諜報能力を結集して素性を晒してやろうという、
ネットユーザーのその由来不明の執着心に、
身の毛がよだつを通り越して、
“身そのもの”がよだつのである。

で、そのトロピカルなマンゴーを流出させちゃった
女っていうのがまた、そこそこかわいいんだ。

…ね。

いや、なにが「ね」なのかと思うだろうが、
結局そういうことなんですよ。

つまり、「俺らよりステータスが上でリアルが充実した人間が、
かわいい彼女とこんなことしてる……ざまあみやがれ
という露骨なルサンチマンを、なんの臆面もなく
暴発させていいってことになってるのが、
炎上や祭りに群がるネット連中の下衆なところだと思うわけ。

不謹慎な発言したとか、非道徳的なこと書いたとか、反社会的なことしたとか、
確かにブログでうかつに書くほうも書くほうだとは思うし、
日記を読まれたりメールを読まれたり手紙を読まれたりするにつけても、
人は言わなくていいことをわざわざ言葉にしてしまいがちな存在であって、
人の不幸とは、「文字にしてしまう不幸」のことである、とすら思っている私だ。
文字さえ書かなければ、人類に訪れる不幸のレパートリーはかなり少なかったはずだ。

だけどね、だけどさ。

とにもかくにも、なにがなんでも、
「なんかうまいことやってるヤツがいるから足を引っ張ってやれ」
というのが、ホリエモン以降、日本人の気分を動かしている
原動力になっているような気がして仕方がない私であって、
そのはしたなさ節度のなさデリカシーのなさは、ちょっと異常だよ。

人間にホンネとタテマエがあること自体はまったく悪いことではないが、
日本人はその落差がちょっとえげつなさすぎると思う。
タテマエの壁が高すぎるし、ホンネの底が深すぎる。
身元を明かして、面と向かって言えないようなことは書くべきでないと私は思うが、
逆に言えば、身元を明かして、面と向かってさえいれば、ほとんど何でも言っていいとも思っている。

陰でコソコソするのが一番よくない。

…って、なんか、さんざん書いておきながら
ものすごく凡庸な結論になってしまったけれど、
実はそれが一番難しいのではないかとも思うのだった。
でも、一度流出しちゃうと取り返しがつかないので、
ハメ撮りだけはホント、やめたほうがいいです。
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第18回 「窮鼠、猫を噛むとは限らない」

第18回 窮鼠、猫を噛むとは限らない


またか。



と思わんでほしいのです。
先立つ不幸
先立つ不幸を許してほしいのです。

私はね、なにもお年寄りの目に優しいコラムが書きたくて、
こんなでかいフォントでお届けしているわけではないのです。
やりたいことしたい
やりたくてやっているわけではないのです。

わずか3週間のときを経て、
またしてもエマージェンシーレイアウトが
お目見えするとは、私だって不本意なのです。

でも、すまん、お手上げだ。
お手上げ

先週辺りからほとんど家に帰っていない。
週末の『SEVEN HOUSE』の撮影も、
出番と出番の間に仕事をしていた。
出番の合間
もう何が補欠なんだかさっぱりわからない状況である。

正直、胃が痛い。
痛い車
痛車よりも痛い。
いつもの私が
アゲアゲ
こんな感じだとしたら、
今の私は確実に
サゲサゲ
こんな感じだ。
むしろ、
最低のケーキ
こんな感じだと言ってもいい。
いや、いっそ
消し炭
こんな感じかもしれない。

こんなエマージェンシーな状況は、
年に何回も来るもんじゃない。
今のこの私の気持ちを、持ち得る文才をフルに使い、
筆舌を尽くして文学的に表現するとしたら、
「マジ勘弁」
である。これが今の私の限界なのである。

だから、今回ばかりはちょっと見逃してくれんだろうか。
「くせ者か!?」と言われたら、「チュー」と鳴き返しますんで、
そしたら「なんだ、ネズミか…」つってスルーしてもらえないでしょうか。

今の私は、袋小路に追い詰められて、
チューチュー断末魔をあげるハダカデバネズミです。
「窮鼠、猫を噛む」で言うところの、窮鼠です。

いつか華麗に猫を噛む日を夢見てはいますが、
噛み合わせが悪かったり、
うっかり自分の舌を噛んでしまっても、
それはそれで手打ちにしてください。

問題は、来週になったら復活しているかというと、
そんな気がちっともしないことだ。

それまで、私のことを忘れないでください。
これからしばらく、夜空に流れるほうき星を見つけたら、
それが俺だと思ってください。

たぶん、生きて帰ってきますから!


今の俺
6月4日10時50分、会社にて途方にくれる俺。


なぜ、追いつめられたネズミはネコに噛みつくのか?

なぜ、追いつめられたネズミはネコに噛みつくのか?

フォレスト出版
もう、うわあああってなるからです。

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第17回 「うつとマスクとビックリマン」

第17回 うつとマスクとビックリマン

豚インフルエンザ対策に買ったマスクを、
みなさんどこに持て余しているのか、そろそろ白状してほしいのです。
後ろ手に隠しているなら出してほしいのです。
ジャンプしたり、靴の裏を見せてほしいのです。

だってさあ、あれだけ「品切れ」とか「入荷待ち」とか言ってたクセに、
実際、街を歩いてみると、みんなびっくりするほどマスクをしてないのである。
口元、丸出しなのである。
口元丸出しで、ウヘヘヘ…ってよだれ垂らして笑ってるのである。
いや、それは春なので俺がたまたま見た幻だったかもしれないが、
せっかく買ったんなら、もっと“普段使い”してこうぜって話なのよ。

確かに、「今がまさに俺のマスクかけどき」という
ふんぎりがなかなかつかない気持ちもわかる。

だって、ここ数年のマスクときたら、
医者がオペで使うようなヒダがついていたり、
エッジの利いた「キャシャーン」みたいなイカツイものばかりで、
「なんか風邪っぽい」程度の人間が、軽い気持ちで
うかつに使うには“本気すぎる”のである。

「旅館のピンポンで本気になるなよ」とか、
「通夜ぶるまいの寿司、本気で食うなよ」とか、
本気になるタイミングを見誤ると、人は恥ずかしいことになるが、
あんまり早い時期から本気マスクをかけて、
ビビリと思われるのは避けたいというチキンレース的な思いが、
人々の心の中で未だにわだかまっているのではないか。

しかも、本来は「予防」のためにするはずのマスクなのに、
むしろマスクを装着している人のほうが「絶賛感染中」みたいな
ビジュアルになってしまうため、周囲からエマージェンシーな目
見られてしまう、という危険性もある。

しかし、人目を気にしてマスクができないくらいなら、
そもそもなんでマスクなんか買ったんだ、という話である。
する気もないマスクを買い占めるほど、人々は何を恐れたのだろうか。
「豚インフルエンザ」の「豚」って部分か。

たぶん人々が恐れたのは、「新型インフルエンザの蔓延」という、
具体的に何を恐れたらいいのかわからない
漠然とした不安そのもの
だったと思うのな。
だからそれを、「マスク」という具体的で目に見えるものを
手に入れる
という簡単な行為に置き換えて、
とりあえずの不安を解消させたのである。

これってあれな、すごく不謹慎なたとえだけど、
うつの人がリストカットするのと似てるよね。

あれはさ、抱える苦しみの正体が自分でもわからなくて辛いから、
わかりやすくこれだと言える「痛み」の場所が欲しくて切るわけじゃない。
手首切っても、本当に死ぬつもりはないのと同じで、
マスクさえ買ってしまえば、本当に使う必要はないのである。
シールさえ抜き取ってしまえば、ビックリマンチョコはもう要らないのである。

つまり、人は必ずしもチョコが食べたくて
ビックリマンチョコを買うわけではない
ってことだ。

何かは何かの代償行為。
欲望の対象がチョコではなくシールにある以上、
本当はビックリマンチョコは
ビックリマンキャラメルでもビックリマン大福でも
ビックリマンマギーブイヨンでもよかったのかもしれない。

しかしそれでは、シールに30円も50円も
払うことの後ろめたさに堪えられないから、
「あのウエハースチョコも、あれはあれでおいしかったよね」とか、
「なんだかんだ言って、あのウエハースチョコあってのビックリマンだったよね」と人は思うのだ。
否、思おうとするのだ。

だって、そう思わなければ、
自分がそのチョコだったときの虚しさに堪えられないからだ。

こと人間関係においては、
「私はあの人にとって、誰の代償物なのだろう…」
などと思いつめると死にたくなるので、やめたほうがいいと思う。

「チョコが好き」「手首切りたい」「マスク買いたい」
その表面的なニーズが、実はいくらでも入れ替え可能なことに
気付いて平気でいられるほど、私たちの日常はまだ磐石じゃない。

さて、シールを抜かれたビックリマンチョコは
捨てられて社会問題になったが、
買い占められたマスクは今、誰がどうしているのだろうか。

風呂場の排水溝に詰まっているのだろうか。
下水の片隅に浮いてたりするのだろうか。
そのうち海に流れ込み、海一面を白く多い尽くして
豊かな漁場を荒らしたり
するのだろうか。

この際だから、何か全く新しいマスクの使い方を
編み出してみるのもいいかもしれない。


猿ぐつわの代わりに。
コーヒーフィルターの代わりに。
パーティー時の紙皿・紙コップに。
超極小セクシー下着として。
いっぱいつなげて卒業式で川に流す。

ミルクをたっぷり染み込ませて揚げる。
株券として。
カツオだしで煮込んだマスクを鬼の格好で
子どもに投げつける新しい地方の年中行事として。



せっかく買ったのだから、
ぜひ有効に活用していただきたいと思う。
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第16回 「服を脱ぐようにカラオケを」

第16回 服を脱ぐようにカラオケを

カラオケは、あられもない。

少なからず私のことを知っている人なら、私がこのことをあらゆる場所で
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も、
口を漬けすぎたキムチのように酸っぱくして言い続けているのをご存知だろう。

「カラオケは、あられもない」は、
「吉野家のテイクアウトのビニール袋は妙に長い」
「松屋のカレーの味はエッジが利き過ぎている」
と並んで、私が日頃から声高に吹聴してやまない「3つの主張」のうちのひとつであり、
なぜ3つのうち実に2つが牛丼屋チェーンにまつわる話で占められているのかは
この際、不問に付して欲しいのだが、とにかくこの主張は私の中でここ数年揺るがない。

そもそも、「自分の歌いたい曲」を持っている時点でもうはしたないし、
それを自分が原曲キーで歌えるかどうか知っているのも、しゃらくさい
下手なら人前で歌うなとも思うが、逆に上手かったら上手かったで、
そこまでに経たであろう「練習していた時間」というものの存在を感じさせて、
それもまた、いたたまれない

もうすぐ没後7年になることに追悼の意を表して、
あえてナンシー関っぽい言い方をするならば、カラオケは
「自分はこういう歌を歌うキャラである」というプレゼンではなく、
「自分はこういう歌を歌うキャラだと思われたい人間である」という自意識の自己申告だ。
別にそれほどナンシー関っぽくはないし、
没後7年はもちろん何の節目でもないが、
それでもあえて言ってみた。

生きるとは、とりもなおさず自己申告の連続である。
たとえば、スーパーのレジに並ぶ人の買い物カゴには、
ありとあらゆる欲望の自己申告があふれている。

私は菓子パンの好きな人間です。
私はコーラスウォーターばかり飲む人間です。
私は今夜のおかずをコロッケにしようとしている人間です。
私は今、家のトイレットペーパーを切らしている人間です。
私はこれから生理がはじまる人間です(しかも多いです)。
私はかかとをなめらかにしたい人間です。
私はさかむけをケアしたい人間です。
私はシートで熱を冷ましたい人間です。

後半はほとんど小林製薬の商品を買っていただけだが、
ひとたび、そういう目で買い物客を見てみると、
「欲しがり屋さんの欲望ダダ漏れ最前線」といった感じで、
なーんかこっちが顔を赤らめたくなる。

ただのスーパーでさえそうなのだから、薬局!
薬局のレジ係で働いている人なんか、もうどうなっちゃうんだろう。
「うわ、この人、整髪料で毛先を遊ばせたいんだ…」とか、
「この人、かみそり負けを気にしてるんだ…」とか、
「あ、膣カンジダなんだ…」とか考えただけで、
毎日がウハウハなのではないだろうか。
そしてこの話、書けば書くほど俺が変態に見えてくるが大丈夫だろうか。

だから言わんこっちゃないのである。

…って、何が「だから」なのかわからんが、
人はこうして黙って生活しているだけで、
すでに十分すぎるほどの情報量を自己申告してしまう生き物である。
その上、何が楽しくてカラオケまでして、
自分の「自己演出のプラン」まで人にバラさなければいけないのか。

うるさい。
歌のボリュームはともかく、
その自意識がうるさい。

だから私は、やむを得ずカラオケで歌わざるを得ないときは、
「たまたま歌ってみたら上手かった」
「歌えるかどうか試しに歌ってみた」
「ネタとしてみんなにウケる持ち曲」
のいずれかのスタンスしか選ばないようにして、
カラオケが「自意識の演出装置」になることを
極力避けるようにしている。


…とかなんとか言いつつも、
頼まれもしないのにこんなブログを
いそいそ書き続けている時点で、
私だって、過剰に自己申告をしたがる自意識の
「申告したがり屋さん」であることに変わりはなく、
人生という名のカラオケをあられもなく、
高らかに歌い上げている
人間の一人である。

そう、大切なのは、そういう「含羞」の感覚だ。
私ごときが、恥ずかしい人間で、すみません。
みんながそう思っていれば、世の中の
傲慢さの目盛りが1ミリ下がると思う。
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第15回 「僕のお尻は延暦寺」

第15回 僕のお尻は延暦寺


久しぶりのエマージェンシーです。
字の大きさで、「あ、エマージェンシーだな」と判断してください。

とにかく、仕事が思うさまカツカツであって、
そのカツカツっぷりを今、「カーツ大佐」をたとえに使って
表現しようと一瞬だけ思い、すぐに思い直した私であるが、

辛うじて「カーツ大佐と言わない」という瀬戸際の
ジャッジメントだけは正しく働いたものの、
放っておくとすぐにそういう安易な、

相武紗希で「おサキにどうぞ」みたいな(警視庁交通安全週間のポスター)、
吉岡美穂で「かけてみほ?」みたいな(アートネイチャーかなんかのCM)、
多部未華子で「食べてみかこ?」みたいな(そんなCMはない)、

きわめてコンビニ感覚の、温度のひくーい
ダジャレに逃げ込みたくなってしまうほどに、
私は今、キワッキワに追い詰められている。

それはもちろん、今週終えるべき仕事が
まだ全然終わっていないからだし、
徹夜したくせにそのぶん明け方寝てしまって
プラマイゼロで焦っているからで、

こうしてキーパンチしている間も私の表情は
ダチョウ倶楽部の竜ちゃんのように涙目だし、
キーパンチしている手も実際は猫パンチのように頼りなく、
状況はほとほとパニックだ。
ワニワニパニックだ。

……いや、ワニワニパニックじゃないよ。
それくらいの客観性はあるよ。

危機一髪って言葉があるでしょ。
ないもの。
俺と危機との間に、もはや
髪の毛一本ぶんのゆとりすらないもの。
危機剃髪ですよ。

今の俺に比べたら、黒ひげなんて
全然危機一髪じゃないからね。
なんなら代わってほしいよ、黒ひげと。
樽にはまってビクビクしてればいいんでしょ?
やるよ、やりたいよそんな牧歌的なリアクション芸ならむしろ。

こちとらさあ、尻に火がついてるのよ。
尻がボボボーボ・ボーボボなのよ。
俺のお尻に延暦寺あった?くらいの
ちょっとした焼き討ち状態だから、今。
尻に住まう僧兵たちがso hey!つって踊ってますから。
踊り狂ってワニワニパニックになってますから。

だから、ワニワニパニックではないよ。

少なくともパニックではないよ。

ワニワニだよ。


……今、「そっちかよ!」ってツッコんでくれた
人がいたら、俺、100歳まで長生き。



ごめん、今週はこれで勘弁してくれ。
だからといって来週はもっとワニワニパニックに
なっている可能性もあり、予断は許さない。
…ああ、もっとまんべんなく生きてぇよう。
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第14回 「ゴッサムシティ鎌倉」

第14回 ゴッサムシティ鎌倉

行楽シーズンの鎌倉ほど、人をマゾヒスティックな気持ちにさせるものはないと、
今回はいきなりそんな出だしから入りたいと思うわけだが、

というのも、私は生まれも育ちも鎌倉で、
といっても、緑に囲まれ寺社が立ち並び眼前に海が広がる、
そんな万人が想像するような鎌倉の中心部ではなく、

その北部におまけのようにくっついている、
大船というベッドタウンに実家はあるんだけど、

人に説明するとき「実家は大船です」と言っても
「ああ、松竹の撮影所があったところね。寅さんの撮影してたんでしょ?」
などと物分かりのいい認知の仕方をしてくれる邦画シネフィルはまずいないし、

もちろん「昔、鎌倉シネマワールドって微妙なテーマパークがあったよね」などと、
松竹の古傷をほじくり返すようなマニアックなことを知っている者も皆無であって、

ましてや「大船って…あのアメリカザリガニが日本で最初に
持ち込まれた場所?
」などと言ってくれる友達もいないわけであって、
むしろそんなアタック25の解答者みたいな友達がいたら嫌だということもあり、

たいていの人が「ああ…大船ね……」と言って目を泳がせたまま、
途方に暮れて気まずいマジックアワーが訪れるのは面倒だし申し訳ないので、

そういうときは「実家は鎌倉です」といけしゃあしゃあと答えるようにしているものの、
それで「ああ、鎌倉ですか! いいところに住んでますねえ」などと
いいリアクションを返されると、それはそれでうしろめたい…という
大変に屈折した感情を、鎌倉中心部に対して抱くのが「大船住民あるある」なのだが、

そんな大船住民である私も、小中学生時代は鎌倉中心部まで毎日通学しており、
平素から修学旅行生やお年寄りたちが猛威を振るっている現状を知っていたし、
土日ともなれば、それこそ都心からの日帰り観光客で
町がひしめき合って地元住民は身動きが取れず、
子供ながらに「こんなとこ住むとこじゃねえな」と同情していたのだが、

怖いですね、恐ろしいですね、
東京暮らしが長くなると人の心まで変わってしまうんですね、
と、なぜかここだけ稲川淳二の口調だが、

そんな鎌倉の住民感情をすっかり忘れて完全に第三者の行楽客の立場で、
こともあろうにゴールデンウイークに、臆面もなくおめおめと、ぬけぬけと、のうのうと、
鎌倉へのこのこ出かけてしまった私であって、

そうして行ってみてたどり着いた結論は、
「みんな鎌倉に行きすぎじゃないだろうか」という、
お前これだけ句点( 。 )もなしに話を引っ張ってきておいて
それかよ、みたいな素朴なことになってしまうわけですが、

だってさ、だってね、
鎌倉駅から江ノ電に乗るだけで、
ただ乗ろうとしただけで、
「一時間待ち」
って言われたんすよ!
もう信じられないわけですよ、こちとら。

信じられないついでに、句点を打っちゃったんでね。
もうここから先は、これまで句点を節約してきたぶんまで。
むやみに。やたらと。句点を打っていこう。と、そう。思って。ますけれども。
なんなら。一度に2個も。。3個も。。。句点を。。。。打って。。。。。い。。。。。。け。ば。
いいと思って。。。。。。。。。。。。いますけれ。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。ども。

とにかく、江ノ電なんてね、たかが公共交通機関なんですよ。
地元住民も使う、ただの生活の足なんです。
ビッグサンダーマウンテンじゃないんです。
いや、トロッコみたいな車両が、民家スレスレを通っていく
あのジオラマ感は、確かにアトラクションぽいっちゃあ、ぽいが、
乗るだけで一時間待ちは、どう考えても異常だ。

いや、実際、鎌倉を訪れる観光客の大半は、
鎌倉をディズニーランドか何かと混同しているのかも知れない。

都心からさほど離れておらず、とはいえそれなりに電車を乗り継いで行く
そこそこの「おでかけ感」を味わうことができる距離にあって、
「古都」という一定のコンセプトを守ったさほど広くない箱庭的空間の中で、
寺社や仏像、和食や和菓子、海、カフェといったわかりやすい記号に取り囲まれて、
日常とはちょっと違うスピリチュアルやロハスのごっこ遊びが楽しめる。

鎌倉は、ミッキーマウスの代わりに坊さんとサーファーがパレードする、
スローライフ界のディズニーランドなのだ。

本物のディズニーランドと違うのは、スタッフと客との境界線がズルズルなこと。
おそらく、若い観光客で鎌倉に憧れを抱くのは、緑に囲まれた一軒家で、
採算とかをあんまり考えずにこだわりのコーヒーやらベーカリーを出す
カフェを営んで地元のマダムに愛されたいみたいな、そういう人たちだ。

そして、実際にそういう人たちが脱サラして鎌倉に家を買ってカフェを始めている、
鎌倉には最近、そんな店が本当に多い。

インディーズバンドとそのファンのような、
ハロプロのアイドルに熱狂していたかつての小学生女子のような、
「私にも手が届くかも知れない」等身大の幸せの形が、そこにはある。

京都が商業誌のジャンプなら、鎌倉はコミケの同人誌。
そして、同人誌で固定ファンにだけ愛されていればいいという
生き方を選択する人が、今は多いのだと思う。

思いがけずシリアスな話になってしまったが、
鎌倉が思いのほかいつまでも飽きられずに、
観光地としてのリノベーションに成功しているのは、
そういう人々の欲望抜きには考えられないなあと思ったのだった。

で、そういう人が消えていなくなれば、
鎌倉ももう少しのんびりした観光地になるんだろうけど。
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第13回 「酔ってパンツの緒を締めよ」

第13回 酔ってパンツの緒を締めよ

酔って粗相をしたことがない、なんて
清廉潔白なことは口が裂けても言えない身分であって、

浴びるほど酒を飲んだ日は、
ときにセクハラに及んで女性を押し倒したり、
部屋の壁に携帯電話を投げつけて穴を空けたり、
自暴自棄になってコンビニの袋を振り回したら
見知らぬマンションの茂みにちぎれたカレーパンが
吹っ飛んでいって行方不明に
なったり、
いろいろあった。

セックス&バイオレンス。あと、なんか…エスニック(カレーパンだから)。

よくわからんが、そういう私の日頃のキャラクターからは
似つかわしくないオスな一面が、酔ったときだけ
ムクムクと頭をもたげて立ち現われてくるのであって、

それが私の押さえつけていた本性なのか?と問われたら、
「本性なのだ」と答えるしかないのかもしれず、
だからって人間はそうやすやすと本性を見せてよろしい
ということには、なっていないのが現状だ。

そう、厄介なのは「本性」である。

小さい頃から、「人様には素直に、正直に生きなさい」と教育されている割に、
我々は「本性」を見せると怒られてしまう理不尽な存在なのである。

いや、そりゃあ私も大人ですよ。
そうそうめったやたらと「本性」を
ズルムケにして生きていいとは思ってないよ。
思っていても言わない、考えていてもやらないのが
分別ある大人のデリカシーであると、歯をくいしばって理解はしている。

だとしたら、なぜに世間はこんなにも酒に対して寛容で野放しなのか。
あまつさえ、飲めない奴はつまんねえみたいな空気をバンバン出してくるのか。
そこら辺、納得のいく説明が欲しい私がいるわけですよ。

酒といったらあなた、本性のリミッターを解除する格好のトリガーじゃないですか。
心の鍵を開けるピッキング犯みたいなもんじゃないですか。
心のスキマをお埋めするドーーーン!みたいなもんじゃないですか。

そりゃもう、精神に与える影響、常習性、依存性は明らかであって、
「アル中」なんて、一見「お前、どこ中?」みたいなフランクな響きを装っておきながら、
実際は中学生のようなかわいげなど微塵もなく、そのタチの悪さは大麻以上だとも聞く。

世間は、そんな悪魔の妙薬を「大人の嗜みだろ」みたいにグイグイ勧めておきながら、
いざ酒で粗相をしでかすと「大人としてなってない」と、
人を崖っぷちに追い詰める片平なぎさのような仕打ちをしてくる。

なんなの?
「世間」って「鬼」の別名?
自分からホテルに誘っておきながら、バレたら「ムリヤリ押し倒されたの」っていう女?

もちろん「節度ある酒量を自己管理するのが大人でしょ」という言い分なのはわかるが、
酒という強力な依存性薬物を相手にして、
それはデリカシーの要求水準が高すぎるのではないだろうか。
それってなんか、「落とすための面接」みたいな、
ムチを打ちたいがためにアメを与えてる感じがしません?

少なくとも、酔った上での粗相は、
「やらかしてしまったこと」を罪に問うのではなく、
「自分が本性を露呈してしまう酒量のラインを
管理できなかった管理責任」だけを問うべきだと思う。

それに、この世から本気でアルコールの害毒をなくしたいのなら、
「お酒、カッコ悪い。」とか、「ダメ、セッタイ。」とか、
「泥酔は、犯罪です。」とか呼びかければいいんだよ。
なぜ、酒を大麻並みに厳しく規制しないのか。

それができないのなら、大麻を酒並みに合法にすればいいのだ。
…いや、ごめん。それは違う。言い過ぎた。
よ、要するに、咽喉に詰まらせる危険性は同じなのに、
なぜ餅は許され、こんにゃくゼリーは製造中止になるのかという話だ。

餅とこんにゃくゼリーとを遠く隔てる、
「事情」という名の深くて暗いイムジン河。
その「事情」に、言い知れぬ欺瞞を感じてしまう私は、
「王様は裸だ」と臆面なく口にしてしまう子供なのでしょうか。
「裸だったら何が悪い」と夜空に叫んだチョナンカンなのでしょうか。

――答えはすべて、草なぎ君の脱いだウエストポーチの中に入っている。

そんな夢のある話だったら、いいのにな。
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