デリカシーの機微が問われる現代社会のさまざまな局面に、ぼんやりと警鐘を鳴らす無神経なコラム。
デリカシーには貸しがある
第04回「シロスジフクダカミキリ」
- 2010.08.30 Monday
- 福田の蜻蛉日記
福田の蜻蛉日記~すばらしきバグズライフ~
第04回「シロスジフクダカミキリ」
【某月某日】
二足歩行のみなさん、こんにちは。
相変わらずの暑さに、冷凍庫で冷やした虫ゼリー
くらいしか食べる気がしない福田です。
更新が一週間空いてしまいましたが、これは別に
私の身の上に何らかの変化(脱皮とか羽化とか変態とか)が
起きていたわけではないので、ご心配なく。
ちょっとね、瀬戸内の島々に行って3日間ばかし羽を休めてました。
あ、「羽を休めてた」ってのは俺の場合、文字通りの意味だから。
こういうの、今日から「虫レトリック」って呼ぶからよろしく。
羽ばたいての移動、虫的にコレ、マジで疲れるのね。
だって考えてみてよ。ハチやカナブンの羽音ってすごいでしょ。
普通に考えて、あんな小さな体からあんな音させたら、背中がもげますって。
何の気なしに飛んでいるように見えて、あれみんな目を血走らせてるからね?
全員が全員、エスパー伊東や江頭2:50のような「りきみ方」を普段使いしてるんだもの。
そりゃあ、寿命も短くなるよ。
寿命が短くなるといえば、『24時間テレビ』で
マラソンをしていたはるな愛の寿命が縮んでいないか心配だ。
体作りや練習もそこそこに走らされて、あれじゃあ背中がもげますって。
あの番組は、ほんとに相変わらず観ていて虫酸が走るなあ。
虫酸マラソンだなあ(←あ、これが虫レトリックね)。
…いや、わかってるのよ?
今さら24時間テレビの偽善や欺瞞性を批判して
みせたところで、何の新しさも面白みもないってことは。
むしろ、さも鬼の首をとったように批判する価値すらないと思う。
だってあれ、やってることは『はじめてのおつかい』と一緒だもの。
知恵も体力もない子供がけなげに買い物をする姿は、
そりゃあ愛らしいし、いじらしいし、感動的だし、
それを観て泣くのは人間として自然な反応だとも思う。
でも、それは単に「バラエティ番組としてよくできている」ということだ。
同じことをハンデや悲運を背負った人にやらせることで、
単なる「番組の手法」を、さも「乗り越えるべき人生の試練」
であるかのようにすりかえるのは、なんというか、その、
虫が良すぎるのではないか(言っちゃったーーー!)。
そうそう。
何かに似てると思ったら、『24時間テレビ』って
虫同士を戦わせる企画モノDVDに似てるんだ。
カブトムシとオオムカデを戦わせたりさあ、確かにおもしろいけど、
それ、お前が無理やりセッティングしたマッチじゃん。
ま、そういう我われだって、
自分で掘ったドツボにはまっておきながら
「どうして私、うまくいかないんだろ…」とか
非運ぶっちゃう生き物ですからね。
人間は、自ら喜んでハンデを背負っては、
毎日、自分だけの『24時間テレビ』を
演じているだけなのかもしれない。
澱のように淀んだ現代人の心にとって、
それがけなげな「どぶサライ」の方法なのだ。
うーん、うますぎて背中がもげますって!
第04回「シロスジフクダカミキリ」
【某月某日】
二足歩行のみなさん、こんにちは。
相変わらずの暑さに、冷凍庫で冷やした虫ゼリー
くらいしか食べる気がしない福田です。
更新が一週間空いてしまいましたが、これは別に
私の身の上に何らかの変化(脱皮とか羽化とか変態とか)が
起きていたわけではないので、ご心配なく。
ちょっとね、瀬戸内の島々に行って3日間ばかし羽を休めてました。
あ、「羽を休めてた」ってのは俺の場合、文字通りの意味だから。
こういうの、今日から「虫レトリック」って呼ぶからよろしく。
羽ばたいての移動、虫的にコレ、マジで疲れるのね。
だって考えてみてよ。ハチやカナブンの羽音ってすごいでしょ。
普通に考えて、あんな小さな体からあんな音させたら、背中がもげますって。
何の気なしに飛んでいるように見えて、あれみんな目を血走らせてるからね?
全員が全員、エスパー伊東や江頭2:50のような「りきみ方」を普段使いしてるんだもの。
そりゃあ、寿命も短くなるよ。
寿命が短くなるといえば、『24時間テレビ』で
マラソンをしていたはるな愛の寿命が縮んでいないか心配だ。
体作りや練習もそこそこに走らされて、あれじゃあ背中がもげますって。
あの番組は、ほんとに相変わらず観ていて虫酸が走るなあ。
虫酸マラソンだなあ(←あ、これが虫レトリックね)。
…いや、わかってるのよ?
今さら24時間テレビの偽善や欺瞞性を批判して
みせたところで、何の新しさも面白みもないってことは。
むしろ、さも鬼の首をとったように批判する価値すらないと思う。
だってあれ、やってることは『はじめてのおつかい』と一緒だもの。
知恵も体力もない子供がけなげに買い物をする姿は、
そりゃあ愛らしいし、いじらしいし、感動的だし、
それを観て泣くのは人間として自然な反応だとも思う。
でも、それは単に「バラエティ番組としてよくできている」ということだ。
同じことをハンデや悲運を背負った人にやらせることで、
単なる「番組の手法」を、さも「乗り越えるべき人生の試練」
であるかのようにすりかえるのは、なんというか、その、
虫が良すぎるのではないか(言っちゃったーーー!)。
そうそう。
何かに似てると思ったら、『24時間テレビ』って
虫同士を戦わせる企画モノDVDに似てるんだ。
カブトムシとオオムカデを戦わせたりさあ、確かにおもしろいけど、
それ、お前が無理やりセッティングしたマッチじゃん。
ま、そういう我われだって、
自分で掘ったドツボにはまっておきながら
「どうして私、うまくいかないんだろ…」とか
非運ぶっちゃう生き物ですからね。
人間は、自ら喜んでハンデを背負っては、
毎日、自分だけの『24時間テレビ』を
演じているだけなのかもしれない。
澱のように淀んだ現代人の心にとって、
それがけなげな「どぶサライ」の方法なのだ。
うーん、うますぎて背中がもげますって!
第03回「ヘラクレスオオフクダカブト」
- 2010.08.15 Sunday
- 福田の蜻蛉日記
福田の蜻蛉日記~すばらしきバグズライフ~
第03回「ヘラクレスオオフクダカブト」
【某月某日】
高校時代の部活仲間の飲み会が地元であってね。
普段、大塚ニューコーポのメンバーといると
あんまり気付けないことなんだけど、
いやあ、着実に来てるわ、結婚&出産ラッシュ。
なんというかな、
具体的に日付が決まっているとかじゃないのよ。
むしろ、決まってないにもかかわらず、
「まあ、今の相手と次はもうそろそろ結婚かな」
みたいなことを自然と匂わせてくるあの感じね。
人として段階を踏んで生きている以上、
当然踏むべき手はずとして結婚や妊娠が
視野に入ってきてますよねうちら、みたいな。
意外とそういうところ堅実だな神奈川県民!
というのが偽らざる私の感想であって。
だって、結婚するってことはもう恋愛もセックスも
自由にしてはいけないってことだよ。
自分や相手が心変わりしないという保証と信頼を、
なぜたかだか27歳にして持てるのか。
けっこう本気でわからない虫が今、ここに一匹いるわけ。
みなさん、「自分には人並みの結婚生活が送れる」という
その漠然とした確信はどこから湧いてくるの?
というのを聞きたくて、とうとう聞けなかった福田なのです。
ま、虫なんで聞きたい以前にしゃべれなかったわけですけど。
*****
しかしでもあれだよ。
私が何よりも感動したのは、
虫になってしまったという信じがたい事態にもかかわらず、
同級生たちがこれまでとさほど変わらず
私のことを受け入れてくれたことだ。
みんな私のことを昆虫だとは見なさず、
虫けら同然の人間として扱ってくれた。
「大丈夫だよ、前から虫みたいなところあったし」
「虫になって、むしろしっくりくる感じだよね」
「今まで虫じゃなかったことが不思議なくらいだよ」
「あれ、ていうかとっくに虫だと思ってた」
みんな、私のことを傷つけまいと必死でフォローしてくれる。
私の生態を察してか、会話の中に不用意に
「駆除」「キンチョール」「触角が取れる」
といったフレーズが出てくるのを避けているのがわかるが、
その他はこれまでと変わらずに接してくれている。
みんな、ありがとう。
*****
夜は部員同士で結婚した夫婦の家に泊まりに行ったのだが、
翌朝、玄関先にカブトムシの頭が
いくつも転がっていておったまげた。
え、なに?
なんかのサインなの?
ドリカム的に言えば、
「カブトの頭5体陳列 シ・ン・デ・イ・ルのサイン」なの?
もしや、これが昆虫界の通信手段?
虫になった私に、虫神様(そんなのいるのか知らんが)からの
ムシムシテレフォン(そんなの以下略)なのか?
テキパキとパニックに陥りそうになったのもつかの間、
家人に聞けば、夏に入ってからなんとほぼ毎朝、
カブトムシの頭部だけが落ちているのだという。
たぶん、猫やアライグマなどの動物の仕業だろう、とのこと。
そりゃあ、佐川急便のお兄ちゃんが不在連絡票の代わりに
カブトの頭をへし折って玄関に置いていたらすごく嫌なので、
ここはなんとしても動物の仕業であってほしいのだが、
するとあれか、カブトムシを食べる動物にとって、
あのツノの部分はエビフライでいうところの尻尾、
ローストチキンでいうところのアルミホイルなのね。
たぶん、ツノの部分を手で持って食べるんだろう。
いやーん、かわいい。
それよりも、毎朝食べ残せるほどたくさんの野生のカブトが
大船に生息していたことに一抹の驚きを禁じ得ないよ。
「え、カントリーマァムって白あんが入ってるの?」くらいの小さい驚きだけど。
俺も食べられないように気を付けなければ。
第03回「ヘラクレスオオフクダカブト」
【某月某日】
高校時代の部活仲間の飲み会が地元であってね。
普段、大塚ニューコーポのメンバーといると
あんまり気付けないことなんだけど、
いやあ、着実に来てるわ、結婚&出産ラッシュ。
なんというかな、
具体的に日付が決まっているとかじゃないのよ。
むしろ、決まってないにもかかわらず、
「まあ、今の相手と次はもうそろそろ結婚かな」
みたいなことを自然と匂わせてくるあの感じね。
人として段階を踏んで生きている以上、
当然踏むべき手はずとして結婚や妊娠が
視野に入ってきてますよねうちら、みたいな。
意外とそういうところ堅実だな神奈川県民!
というのが偽らざる私の感想であって。
だって、結婚するってことはもう恋愛もセックスも
自由にしてはいけないってことだよ。
自分や相手が心変わりしないという保証と信頼を、
なぜたかだか27歳にして持てるのか。
けっこう本気でわからない虫が今、ここに一匹いるわけ。
みなさん、「自分には人並みの結婚生活が送れる」という
その漠然とした確信はどこから湧いてくるの?
というのを聞きたくて、とうとう聞けなかった福田なのです。
ま、虫なんで聞きたい以前にしゃべれなかったわけですけど。
*****
しかしでもあれだよ。
私が何よりも感動したのは、
虫になってしまったという信じがたい事態にもかかわらず、
同級生たちがこれまでとさほど変わらず
私のことを受け入れてくれたことだ。
みんな私のことを昆虫だとは見なさず、
虫けら同然の人間として扱ってくれた。
「大丈夫だよ、前から虫みたいなところあったし」
「虫になって、むしろしっくりくる感じだよね」
「今まで虫じゃなかったことが不思議なくらいだよ」
「あれ、ていうかとっくに虫だと思ってた」
みんな、私のことを傷つけまいと必死でフォローしてくれる。
私の生態を察してか、会話の中に不用意に
「駆除」「キンチョール」「触角が取れる」
といったフレーズが出てくるのを避けているのがわかるが、
その他はこれまでと変わらずに接してくれている。
みんな、ありがとう。
*****
夜は部員同士で結婚した夫婦の家に泊まりに行ったのだが、
翌朝、玄関先にカブトムシの頭が
いくつも転がっていておったまげた。
え、なに?
なんかのサインなの?
ドリカム的に言えば、
「カブトの頭5体陳列 シ・ン・デ・イ・ルのサイン」なの?
もしや、これが昆虫界の通信手段?
虫になった私に、虫神様(そんなのいるのか知らんが)からの
ムシムシテレフォン(そんなの以下略)なのか?
テキパキとパニックに陥りそうになったのもつかの間、
家人に聞けば、夏に入ってからなんとほぼ毎朝、
カブトムシの頭部だけが落ちているのだという。
たぶん、猫やアライグマなどの動物の仕業だろう、とのこと。
そりゃあ、佐川急便のお兄ちゃんが不在連絡票の代わりに
カブトの頭をへし折って玄関に置いていたらすごく嫌なので、
ここはなんとしても動物の仕業であってほしいのだが、
するとあれか、カブトムシを食べる動物にとって、
あのツノの部分はエビフライでいうところの尻尾、
ローストチキンでいうところのアルミホイルなのね。
たぶん、ツノの部分を手で持って食べるんだろう。
いやーん、かわいい。
それよりも、毎朝食べ残せるほどたくさんの野生のカブトが
大船に生息していたことに一抹の驚きを禁じ得ないよ。
「え、カントリーマァムって白あんが入ってるの?」くらいの小さい驚きだけど。
俺も食べられないように気を付けなければ。
第02回「ウスバフクダカゲロウ」
- 2010.08.11 Wednesday
- 福田の蜻蛉日記
福田の蜻蛉日記~すばらしきバグズライフ~
第02回「ウスバフクダカゲロウ」
【某月某日】
弱った。
なにが弱ったって、朝目覚めたら
自分が虫になっていたのである。
そりゃあ弱るだろう。
あらためて自分の体を見回してみるが、
手足をはじめ、体は硬い甲羅のような
骨格で覆われていて動きにくいし、
背中にはカゲロウのような
大きな羽が生えており背筋が痛い。
ベッドの脇に立てかけられた姿見に
映った自分の醜悪な姿を見た瞬間、
普段なら恥ずかしくて叫べない松田優作の
あのセリフが、思わず口をついて出る。
「ジージジジ、ジーーーーッジジジ!」
…出なかった。
「なんじゃ、こりゃあああああああ!」
と叫んだつもりだったが、実際には
腹弁にある発音膜が震えただけだったのだ。
いよいよ自分が人間ではなくなったことを実感し、
心の底から本格的にほとほと弱ってきた。
わざわざ弱らなくたって
そもそも弱いのが虫という存在だ。
吹けば飛ぶし、叩けば潰れるし、
「網戸に虫こない」と断言されたらもう網戸にも行けない。
そんな理不尽なまでの脆弱体質をほしいままにしている
あの虫に、まさか自分がなってしまうなんて。
…ああ、先週の今頃は、のんきに
『借りぐらしのアリエッティ』観てたのになあ。
アリエッティ、想像してたのとだいぶ違ったなあ。
他人の家の軒下で暮らす小人の話だっていうから、
俺はもっとこう、ダンボールで雨風をしのぐテクニックや、
賞味期限切れの弁当で食あたりを防ぐコツ、
ネットカフェで仕事と素敵な恋を探す方法などが、
吾妻ひでお似の主人公(身長はひざ丈くらい)によって
訥々と語られる、松江哲明とかが監督の
ドキュメンタリーだと思ってたのに。
なんのことはない、ちっちゃい泥棒の話だった。
南くんの恋人にルパン風味を織り交ぜてた。
「神は細部に宿る」と言うが、小人目線から見た世界の作り込みはさすが。
でも、その細部の豊饒さだけで90分押し切った印象はぬぐえず、
物語の骨格はグラグラだったように思う。
とはいえ、ジブリ作品って実は全然ウェルメイドじゃなくて、
あからさまな飛躍や破綻を平気でストーリーに盛り込んでくるでしょ。
『千と千尋』しかり、『ポニョ』しかり、けっこう本気でわけわかんないし。
あの名作『トトロ』だって、大人になってから初めて観ていたら、
たぶん「え、なに?」みたいな腑に落ちない点がけっこうあると思うんだよね。
ただ、直感的に子どもをワクワクさせる圧倒的な魅力だけがある。
『アリエッティ』も、おそらくそういった愛され方をする
『トトロ』に似たタイプの作品になるのではないでしょうか。
それに、今なら私にはわかる。
この映画は、“虫目線”から見た世界をきわめて
忠実に代弁した、数少ない貴重な映画である。
あの頃の私は、まだまだ「人間」としての驕った立場から
この映画を観ていたから気付かなかったのだ。
アリエッティと半ば同じ境遇になった今、
私は彼女の身の上にいたく感情移入している。
私なら、この作品のタイトルをこう名付けるだろう。
「虫はつらいよ~ゴキブリ少女のてなもんや放浪記~」
第02回「ウスバフクダカゲロウ」
【某月某日】
弱った。
なにが弱ったって、朝目覚めたら
自分が虫になっていたのである。
そりゃあ弱るだろう。
あらためて自分の体を見回してみるが、
手足をはじめ、体は硬い甲羅のような
骨格で覆われていて動きにくいし、
背中にはカゲロウのような
大きな羽が生えており背筋が痛い。
ベッドの脇に立てかけられた姿見に
映った自分の醜悪な姿を見た瞬間、
普段なら恥ずかしくて叫べない松田優作の
あのセリフが、思わず口をついて出る。
「ジージジジ、ジーーーーッジジジ!」
…出なかった。
「なんじゃ、こりゃあああああああ!」
と叫んだつもりだったが、実際には
腹弁にある発音膜が震えただけだったのだ。
いよいよ自分が人間ではなくなったことを実感し、
心の底から本格的にほとほと弱ってきた。
わざわざ弱らなくたって
そもそも弱いのが虫という存在だ。
吹けば飛ぶし、叩けば潰れるし、
「網戸に虫こない」と断言されたらもう網戸にも行けない。
そんな理不尽なまでの脆弱体質をほしいままにしている
あの虫に、まさか自分がなってしまうなんて。
…ああ、先週の今頃は、のんきに
『借りぐらしのアリエッティ』観てたのになあ。
アリエッティ、想像してたのとだいぶ違ったなあ。
他人の家の軒下で暮らす小人の話だっていうから、
俺はもっとこう、ダンボールで雨風をしのぐテクニックや、
賞味期限切れの弁当で食あたりを防ぐコツ、
ネットカフェで仕事と素敵な恋を探す方法などが、
吾妻ひでお似の主人公(身長はひざ丈くらい)によって
訥々と語られる、松江哲明とかが監督の
ドキュメンタリーだと思ってたのに。
なんのことはない、ちっちゃい泥棒の話だった。
南くんの恋人にルパン風味を織り交ぜてた。
「神は細部に宿る」と言うが、小人目線から見た世界の作り込みはさすが。
でも、その細部の豊饒さだけで90分押し切った印象はぬぐえず、
物語の骨格はグラグラだったように思う。
とはいえ、ジブリ作品って実は全然ウェルメイドじゃなくて、
あからさまな飛躍や破綻を平気でストーリーに盛り込んでくるでしょ。
『千と千尋』しかり、『ポニョ』しかり、けっこう本気でわけわかんないし。
あの名作『トトロ』だって、大人になってから初めて観ていたら、
たぶん「え、なに?」みたいな腑に落ちない点がけっこうあると思うんだよね。
ただ、直感的に子どもをワクワクさせる圧倒的な魅力だけがある。
『アリエッティ』も、おそらくそういった愛され方をする
『トトロ』に似たタイプの作品になるのではないでしょうか。
それに、今なら私にはわかる。
この映画は、“虫目線”から見た世界をきわめて
忠実に代弁した、数少ない貴重な映画である。
あの頃の私は、まだまだ「人間」としての驕った立場から
この映画を観ていたから気付かなかったのだ。
アリエッティと半ば同じ境遇になった今、
私は彼女の身の上にいたく感情移入している。
私なら、この作品のタイトルをこう名付けるだろう。
「虫はつらいよ~ゴキブリ少女のてなもんや放浪記~」
第01回「チャバネフクダゴキブリ」
- 2010.08.01 Sunday
- 福田の蜻蛉日記
福田の蜻蛉日記~すばらしきバグズライフ~
第01回「チャバネフクダゴキブリ」
*****
【某月某日】
大塚から早稲田に引っ越して半年経って、
何がいけすかないって、部屋に
ゴキブリが出るようになったことだ。
狭い狭い6.5畳のワンルームに
レギュラーサイズのゴキブリが出没すると、
広い部屋よりも、必然的にゴキブリの占有率が高くなるわけで、
人間様が月収の1/3の家賃を払ってやっとこ住んでいる牙城に、
わずかでもあんなキャラメリゼした松崎しげるの皮膚みたいな
生物をタダで間借りさせているかと思うと、
これはもう相当にいけすかない事態だ。
パッケージでそこそこかわいいと思って借りた
AVの女優が、中を観てみたら
「フジの高橋真麻アナそっくり」
だったとき以上にいけすかない。
で、仕方がないから前足をこすりあわせつつ
近所のドラッグストアに向かい、
「虫にきびしく、人にやさしい」という
キャッチフレーズが書かれた殺虫スプレーを購入。
なんでも、ゴキブリの通り道にあらかじめ
噴霧しておくだけでも殺虫効果があるという。
さっそく、部屋の壁づたいに「憤怒!」という勢いで噴霧し、
これで今年の夏はゴキエッティを借り暮らしさせるまい、
と溜飲を下したのもつかの間。
なんかさ、鼻水が止まらないのね。
かんでもかんでも「もう出てくるの?」みたいな、
ねづっちのなぞかけのような信心深いテンポで
鼻水がこみ上げてくるのである。
もうね、クヌギの樹液のようなこみ上げ方なんですよ。
思わず「おいしそう」とすら思いましたね。
「人にやさしい」と書いてあったはずなのに、
この殺虫スプレーは、なぜこんなにも俺にきびしいのか。
まったくもって、いけすかない。
フジの高橋真麻アナ本人よりもいけすかない。
思わず街灯にたかりたくなる気持ちを抑えながら、
その日はさなぎのように眠りについた私なのだった。
*****
第01回「チャバネフクダゴキブリ」
無難に日記を書こうと思った。
『大塚ニューコーポ』の連載コラムの更新が止まって早一年。
企画を立てては潰し、書いてはフェードアウトしてきた私が、
どうにか連載の体をなして何かを書かせてもらえるとしたら、
もはや日記でお茶を濁すくらいしか続けられる手立てはないと思ったのだ。
幸い、面白くもない日常をいじりたおすことなら、
これまでにもさんざん書いてきた。
ていうか、そういうことしか書いたことがない。
できるかわからないことを始めて、案の定
頓挫させてしまうのがこれまでの人生だったのだから、
できるとわかっていることを地道に続けるのは、
もうすぐ30歳になってしまう男の前向きな
あきらめ方として、もっとも相応しいのではないか。
私は、そういう人間なのだ。
いや、「人間」だったのだ。
あの日の、あの朝までは。
*****
【某月某日】
大塚から早稲田に引っ越して半年経って、
何がいけすかないって、部屋に
ゴキブリが出るようになったことだ。
狭い狭い6.5畳のワンルームに
レギュラーサイズのゴキブリが出没すると、
広い部屋よりも、必然的にゴキブリの占有率が高くなるわけで、
人間様が月収の1/3の家賃を払ってやっとこ住んでいる牙城に、
わずかでもあんなキャラメリゼした松崎しげるの皮膚みたいな
生物をタダで間借りさせているかと思うと、
これはもう相当にいけすかない事態だ。
パッケージでそこそこかわいいと思って借りた
AVの女優が、中を観てみたら
「フジの高橋真麻アナそっくり」
だったとき以上にいけすかない。
で、仕方がないから前足をこすりあわせつつ
近所のドラッグストアに向かい、
「虫にきびしく、人にやさしい」という
キャッチフレーズが書かれた殺虫スプレーを購入。
なんでも、ゴキブリの通り道にあらかじめ
噴霧しておくだけでも殺虫効果があるという。
さっそく、部屋の壁づたいに「憤怒!」という勢いで噴霧し、
これで今年の夏はゴキエッティを借り暮らしさせるまい、
と溜飲を下したのもつかの間。
なんかさ、鼻水が止まらないのね。
かんでもかんでも「もう出てくるの?」みたいな、
ねづっちのなぞかけのような信心深いテンポで
鼻水がこみ上げてくるのである。
もうね、クヌギの樹液のようなこみ上げ方なんですよ。
思わず「おいしそう」とすら思いましたね。
「人にやさしい」と書いてあったはずなのに、
この殺虫スプレーは、なぜこんなにも俺にきびしいのか。
まったくもって、いけすかない。
フジの高橋真麻アナ本人よりもいけすかない。
思わず街灯にたかりたくなる気持ちを抑えながら、
その日はさなぎのように眠りについた私なのだった。
*****
翌朝、腹側部の呼吸孔に息苦しさを覚えて
目を覚ました私は、寝ぼけまなこをこすろうとして
その目が複眼であることに気付き、ギョッとした。
自分が虫になっていたことを理解したのは、それから5分後のことだ。
その日から、私の「リアル・バグズライフ」が始まったのである。
大塚ニューコーポ一周年に寄せて
- 2010.01.25 Monday
- お知らせ
ご無沙汰しております。福田フクスケです。
このたび、2010年1月25日を持ちまして、webサイト『大塚ニューコーポ』は開設一周年を迎えました。
この間、一度でもサイトのコンテンツをご覧いただいた皆様には、厚く御礼申し上げます。
一周年を迎えた感想を一言で申し上げますと、
「いまだかつて、こんなにも人目に触れないサイトがあっただろうか」
というのが正直なところです。
いや、確かにここ半年間のサイト更新頻度には、非常に心もとないものがありました。
ここ最近は、定期的に更新されるコンテンツといえば、MSTとフクスケによるラジオ番組のみ。
そりゃあアクセス数もページビュー数も伸びないだろうという自覚と懺悔はありますよ。
それはもう、元気よく「ごめんなさいね!」と言うしかないです。
でもね、少なくともオープンから半年の間のコンテンツは、そこそこに充実していた自負だってあるんです我われには。
かなりがんばって毎日どこかしら更新してました。
にもかかわらず、まあ見られてる気がしない。さっぱりしない。
アクセス解析しても、「女性器」とか「オナニー」とか、
まあエロ目的の奴しか網にかかってきませんでしたわ。
あと「男の尻」目的の奴もようけ引っかかってきましたわ。
「お前、そんなざっくりした検索の仕方で、
ちゃんといつも見たいもの探せてるのか?」
逆に心配になるくらいですわ。
ことほどさように、大塚ニューコーポの歩んできた一年間は、
広大なるネット空間において、孤軍奮闘おもしろいことをしていることを
誰からも見つけてもらえない空しさとの、戦いとあがきの歴史だったのです。
もうこんな空しい戦いは嫌だ。
そう思ったから…かどうかはわかりませんが、
私たちは開設一周年を記念して、新たな悪あがきをしてみたいと思います。
その“悪あがき”とは…
大塚ニューコーポのフリーペーパーを作ります!
これまでの連載コンテンツの再録やダイジェストのほか、
紙媒体だけの新作コンテンツも盛りだくさん!
大塚ニューコーポの活動実態がわかる16Pオールカラー!
近日発行!
都内各所で配布予定!!
乞うご期待!!!
Coming soon!!!!
2010年、大塚ニューコーポの新たな動きにご期待ください。
このたび、2010年1月25日を持ちまして、webサイト『大塚ニューコーポ』は開設一周年を迎えました。
この間、一度でもサイトのコンテンツをご覧いただいた皆様には、厚く御礼申し上げます。
一周年を迎えた感想を一言で申し上げますと、
「いまだかつて、こんなにも人目に触れないサイトがあっただろうか」
というのが正直なところです。
いや、確かにここ半年間のサイト更新頻度には、非常に心もとないものがありました。
ここ最近は、定期的に更新されるコンテンツといえば、MSTとフクスケによるラジオ番組のみ。
そりゃあアクセス数もページビュー数も伸びないだろうという自覚と懺悔はありますよ。
それはもう、元気よく「ごめんなさいね!」と言うしかないです。
でもね、少なくともオープンから半年の間のコンテンツは、そこそこに充実していた自負だってあるんです我われには。
かなりがんばって毎日どこかしら更新してました。
にもかかわらず、まあ見られてる気がしない。さっぱりしない。
アクセス解析しても、「女性器」とか「オナニー」とか、
まあエロ目的の奴しか網にかかってきませんでしたわ。
あと「男の尻」目的の奴もようけ引っかかってきましたわ。
「お前、そんなざっくりした検索の仕方で、
ちゃんといつも見たいもの探せてるのか?」
逆に心配になるくらいですわ。
ことほどさように、大塚ニューコーポの歩んできた一年間は、
広大なるネット空間において、孤軍奮闘おもしろいことをしていることを
誰からも見つけてもらえない空しさとの、戦いとあがきの歴史だったのです。
もうこんな空しい戦いは嫌だ。
そう思ったから…かどうかはわかりませんが、
私たちは開設一周年を記念して、新たな悪あがきをしてみたいと思います。
その“悪あがき”とは…
大塚ニューコーポのフリーペーパーを作ります!
これまでの連載コンテンツの再録やダイジェストのほか、
紙媒体だけの新作コンテンツも盛りだくさん!
大塚ニューコーポの活動実態がわかる16Pオールカラー!
近日発行!
都内各所で配布予定!!
乞うご期待!!!
Coming soon!!!!
2010年、大塚ニューコーポの新たな動きにご期待ください。
第23回 「ノーリーズン・ノーライフ」
- 2009.09.01 Tuesday
- デリカシーには貸しがある
第23回 「ノーリーズン・ノーライフ」
…まあ、その、あれだ。
1カ月ほど、「作者取材のため休載していた」ということにしといてはもらえないだろうか。
文頭がいきなりしどろもどろで始まる。
このコラムは、そんな斬新さを常に小脇に抱えながらお送りしているおしゃれな連載である。
昔、「小脇に抱えていいのはセカンドバッグだけ!」という標語を『少年ジャンプ』か何かで読んだことがあるが、知ったことではない。
ひょっとすると、「鳥山先生の漫画が読めるのはジャンプだけ!」の間違いだったような気もするが、同じことだ。
だから、「連載を落とし続けた」という事実を、
「取材のため休載していた」というおしゃれな筋書きに無理やり書き換えても、
みんなひっそりとスルーしてくれるのではないか。
そんな期待で私の胸は今、いっぱいである。
漫画雑誌では、「作者取材のため休載します」という一文をよく見かけるが、
そもそも、連載を落としてしまうことに、理由なんてあるのだろうか。
…いや、そりゃあるだろうけど、そういつもいつも合理的で、
明確な理由で連載を落とすことなんて、ないのではないか。
中には、本当に取材している人もいるだろうが、
たいていは「締め切りにどうしても間に合わなくて」とか、
「単行本の修正作業で連載どころじゃなくて」とか、
そんな理由がほとんどだろう。
「ただなんとなく気が乗らなくて、眠くてしょうがないので寝てしまった」とか、
「おもしろいことを思いつく気がしなかったので、締め切りを見送った」とか、
そんな理由だって、じゅうぶん連載を落とす理由になる。
「太陽が黄色かったから」人を殺した『異邦人』のムルソー。
「出前のカレーが辛かったから」リハをキャンセルしたYOSHIKI。
「急にボールが来たので」決定的チャンスを外した柳沢。
何かをしたり、あるいはしなかったりする理由や動機なんて、そんなものだ。
みんな、そこまで確固たる根拠や決め手があって、行動しているわけではない。
そうではなく、逆に「してしまった」「しなかった」結果の方が先にあって、
それに対して、周囲を納得させたり、周囲が勝手に納得したいがために
「落としどころ」が必要で、そのために理由や根拠は用意されるだけではないのか。
たとえば一時期、のりピーがクラゲのマネをしたり、「ぽぽぽー」と歌う
インタビュー映像が、何度も繰り返し繰り返し
トランスミュージックのように流れていたが、
そんなもの鬼の首とったように見せられても、
「ああ…テンション高いね」という感想以外に
何の判断材料にもならないのが正直なところである。
あんなんで「ヤバイ」って言ってたら、山田優の弟はどうなるんだ。
こういうのって、犬がうるさく吠えていただけなのに、
たまたま大地震が起きたから「予知した」って騒がれるのに似てないか?
犬は、本当に地震を予知して吠えていたのかもしれないが、
それはすでに地震が起きたから言えることであって、
「ほらね、やっぱりおかしかったでしょ」と言うのは
後出しじゃんけんって感じがするのな。
選挙で民主党が大勝した理由だって、
大勝した後だからもっともらしいことを言えるが、
実際のところ最大の理由は、「テレビ報道が政権交代ムードを煽っていたから」でしょ。
それにしたって、ここまで極端に大差がつくというのは、
合理的な根拠や理由では説明できないわけで、
民意がいかに気分に流されるかってことの証明にしかならない。
「あの人はB型だから…」
「彼って草食男子だし…」
「私って、朝ダメな人じゃないですか…」
「ゲイだから…」
「愛人体質だから…」
「心に闇があるから…」
「エチオピア人だから…」
「人間だもの…」
“すでにある定型文”にあてはめて
自分や他人の心を説明しようとするのは便利だが、
物事にあんまり理由や根拠を求めすぎると、本質を見失うのではないかと思う。
しかし、そうかと思えば押尾学のように、
「六本木」「女」「合成麻薬」といった
“いかにも”なシチュエーションから、
「自分だけ部屋から逃げちゃう」という
“いきがってるのにまぬけ”なニュアンスまで、
世間が作り上げた「押尾学っぽさ」の“定型文”に、
自分からぴったりあてはまってしまうような事件を起こす人もいる。
彼に関してだけは、「だって押尾学だから」という
理由ですべて済ませていいような気もするが、
彼もまた、そういった作られた「理由」の犠牲者だと言えないこともなくもない。
いずれにしろ、今日もどこかで日々、それらしい「理由」が生み出され、
その「理由」に背中を押されて、我々は行動したり事件を起こすのであろう。
というわけで、連載を落とし続けてすみませんでした。
だって…
ポケモンラリーの家族連れが……
幸せそうだったから………。
…まあ、その、あれだ。
1カ月ほど、「作者取材のため休載していた」ということにしといてはもらえないだろうか。
文頭がいきなりしどろもどろで始まる。
このコラムは、そんな斬新さを常に小脇に抱えながらお送りしているおしゃれな連載である。
昔、「小脇に抱えていいのはセカンドバッグだけ!」という標語を『少年ジャンプ』か何かで読んだことがあるが、知ったことではない。
ひょっとすると、「鳥山先生の漫画が読めるのはジャンプだけ!」の間違いだったような気もするが、同じことだ。
だから、「連載を落とし続けた」という事実を、
「取材のため休載していた」というおしゃれな筋書きに無理やり書き換えても、
みんなひっそりとスルーしてくれるのではないか。
そんな期待で私の胸は今、いっぱいである。
漫画雑誌では、「作者取材のため休載します」という一文をよく見かけるが、
そもそも、連載を落としてしまうことに、理由なんてあるのだろうか。
…いや、そりゃあるだろうけど、そういつもいつも合理的で、
明確な理由で連載を落とすことなんて、ないのではないか。
中には、本当に取材している人もいるだろうが、
たいていは「締め切りにどうしても間に合わなくて」とか、
「単行本の修正作業で連載どころじゃなくて」とか、
そんな理由がほとんどだろう。
「ただなんとなく気が乗らなくて、眠くてしょうがないので寝てしまった」とか、
「おもしろいことを思いつく気がしなかったので、締め切りを見送った」とか、
そんな理由だって、じゅうぶん連載を落とす理由になる。
「太陽が黄色かったから」人を殺した『異邦人』のムルソー。
「出前のカレーが辛かったから」リハをキャンセルしたYOSHIKI。
「急にボールが来たので」決定的チャンスを外した柳沢。
何かをしたり、あるいはしなかったりする理由や動機なんて、そんなものだ。
みんな、そこまで確固たる根拠や決め手があって、行動しているわけではない。
そうではなく、逆に「してしまった」「しなかった」結果の方が先にあって、
それに対して、周囲を納得させたり、周囲が勝手に納得したいがために
「落としどころ」が必要で、そのために理由や根拠は用意されるだけではないのか。
たとえば一時期、のりピーがクラゲのマネをしたり、「ぽぽぽー」と歌う
インタビュー映像が、何度も繰り返し繰り返し
トランスミュージックのように流れていたが、
そんなもの鬼の首とったように見せられても、
「ああ…テンション高いね」という感想以外に
何の判断材料にもならないのが正直なところである。
あんなんで「ヤバイ」って言ってたら、山田優の弟はどうなるんだ。
こういうのって、犬がうるさく吠えていただけなのに、
たまたま大地震が起きたから「予知した」って騒がれるのに似てないか?
犬は、本当に地震を予知して吠えていたのかもしれないが、
それはすでに地震が起きたから言えることであって、
「ほらね、やっぱりおかしかったでしょ」と言うのは
後出しじゃんけんって感じがするのな。
選挙で民主党が大勝した理由だって、
大勝した後だからもっともらしいことを言えるが、
実際のところ最大の理由は、「テレビ報道が政権交代ムードを煽っていたから」でしょ。
それにしたって、ここまで極端に大差がつくというのは、
合理的な根拠や理由では説明できないわけで、
民意がいかに気分に流されるかってことの証明にしかならない。
「あの人はB型だから…」
「彼って草食男子だし…」
「私って、朝ダメな人じゃないですか…」
「ゲイだから…」
「愛人体質だから…」
「心に闇があるから…」
「エチオピア人だから…」
「人間だもの…」
“すでにある定型文”にあてはめて
自分や他人の心を説明しようとするのは便利だが、
物事にあんまり理由や根拠を求めすぎると、本質を見失うのではないかと思う。
しかし、そうかと思えば押尾学のように、
「六本木」「女」「合成麻薬」といった
“いかにも”なシチュエーションから、
「自分だけ部屋から逃げちゃう」という
“いきがってるのにまぬけ”なニュアンスまで、
世間が作り上げた「押尾学っぽさ」の“定型文”に、
自分からぴったりあてはまってしまうような事件を起こす人もいる。
彼に関してだけは、「だって押尾学だから」という
理由ですべて済ませていいような気もするが、
彼もまた、そういった作られた「理由」の犠牲者だと言えないこともなくもない。
いずれにしろ、今日もどこかで日々、それらしい「理由」が生み出され、
その「理由」に背中を押されて、我々は行動したり事件を起こすのであろう。
というわけで、連載を落とし続けてすみませんでした。
だって…
ポケモンラリーの家族連れが……
幸せそうだったから………。
第22回 「噛まぬなら落としてしまおうホトトギス」
- 2009.07.29 Wednesday
- デリカシーには貸しがある
第22回 「噛まぬなら落としてしまおうホトトギス」
どうも、2週間ぶりです。
ご存知の通りこのコラムは、世にはびこるデリカシーという名の
偽善と欺瞞について考える、熱血硬派な社会派コラムなのであって。
当然、その執筆者である私は、デリカシーの粋を知り尽くし、
デリケートな所のかゆみを自分で治せる、デリカシーの猛者です。
人は私のことを陰でフェミニーナ軟膏と呼んで慕っています。
しかし、やんぬるかな、そんな私も「締め切り」に対する
デリカシーだけは、すこぶる甘い。
それはもう、中学生男子の将来設計のように甘い。
その甘さたるや、「マックスコーヒーだと思って飲んだら、
福田の締め切りだった」と勘違いされるほどである。
そして、喩えに凝るあまり、今、多くの読者を理解の対岸へ
置いてきぼりにしている気がするのですが、みなさん大丈夫でしょうか。
つまらなくてもこれが俺の持ち味なので、がんばって付いてきてください。
ともかく、いくらこの連載のタイトルが
『気まぐれフクスケのぼちぼち更新コラム』だからといって、
さすがに2週連続で更新を落とすと、
『大塚ニューコーポ』での私の立場がなくなる。
ていうか、もうほとんどない。
つい先日も、8月更新予定の単発企画の制作をしていたのだが、
さまざまなシチュエーションの下、外で写真を撮るというこの企画で、
私は被写体として脱いだり裸になったり裸の上に食べ物を乗せられたり、
なんだかやたらと体を張らされるモルモット的な立場だった。
なんだか最近こういう役回りが多いな…とは思っていたが、
よく考えたらこれは要するに、「言葉で笑いをとれない能無しは、
体を張って笑いをとるしかないぞ」という戦力外通告だったのか。
やばいなあ。
じわじわと崖っぷちに追い詰められてきている気がするのよ。
周囲の顔が片平なぎさに見える瞬間だ。
差別的なことを言うつもりはないけど、現実問題として、
頭を使って笑いを取る人間は、体を張って笑いを取る人間を見くびっていると思うわけ。
つまり、知らず知らずのうちに体を張らされているということは、
マイルドにフェードをかけながら引導を渡されているのと同じことだ。
それだけは、ええいああ、なんとしても避けたい。
おもしろきゃいいとは思っているが、対等じゃないのは嫌だ。
少なくとも、裸になったり痛がったりして笑わせるのは、俺のガラじゃない。
だから今はまだ、がんばって頭と言葉を使ってコラムを書こうと思う。
とはいえ、私が締め切りや計画さえきっちり守る人間だったら、
事態はもう少しどうにかなっていると思うのだ。
なぜ、なーぜこんなにも締め切りを守れないのかなこの俺様は!
という問題は、下山事件以上に戦後史最大のミステリーなのである。
昔はそれでも、なんとかなってたのよ。
さながら窮鼠が猫を噛むように、火事場の天才的能力が発揮できる
ギリギリの「追いつめられ」のデッドラインを心得ていたもの。
それが、いつしか追いつめられすぎて、猫にのどぶえを
噛み切られてジ・エンドになることが増えてきた。
そうなのだ。
チョロQが、一度うしろに引かなければ走れないように、
私は生まれてこの方、追いつめられることなく、
自分から猫を噛みにいったことなんてないのかもしれない。
だとしたら、ちょうどいい追いつめられ方のタイミングを
見きわめられなくなってきた勘の鈍りは、私にとって死活問題だ。
「締め切りを守って、なおかつおもしろいものを書く」ことが両立できない人間は、
「締め切りを優先させて、そこそこのものを書く」か、
「締め切りは破るけど、超おもしろいものを書く」か、
どちらかしか、生きる道がない。
そして後者の道は、売れるか偉くなるかしないと認められないのです。
人は誰もがリリー・フランキーにはなれないのですからしてー!
窮鼠にしかなれないのならば、計画的に窮鼠になるしかない。
だったら私は、「窮鼠になるテク」を磨きたい。
窮鼠初段になりたい。
誰か、『猫に噛みつく窮鼠力』というタイトルで
ビジネス書でも出してくれないでしょうか。
もしくは、『片平なぎさは、なぜ崖に犯人を追いつめるのか』という新書でもいいですから。
そんなわけで今とにかく私は、
遅れたコンテンツの更新を取り戻すために、
次の更新がさらにまた滞っていくという悪循環の回し車を、
カラカラカラカラ走っているハムスターである。
ああ、今なら連載時の作画の乱れを単行本収録時に直すために、
本誌の連載を休んでいた富樫義博先生の気持ちがわかる。
カラカラわかる。
モルモットになったりネズミになったりハムスターになったり、
どうにもげっ歯目なキャラから抜け出せない私なのだった。
どうも、2週間ぶりです。
ご存知の通りこのコラムは、世にはびこるデリカシーという名の
偽善と欺瞞について考える、熱血硬派な社会派コラムなのであって。
当然、その執筆者である私は、デリカシーの粋を知り尽くし、
デリケートな所のかゆみを自分で治せる、デリカシーの猛者です。
人は私のことを陰でフェミニーナ軟膏と呼んで慕っています。
しかし、やんぬるかな、そんな私も「締め切り」に対する
デリカシーだけは、すこぶる甘い。
それはもう、中学生男子の将来設計のように甘い。
その甘さたるや、「マックスコーヒーだと思って飲んだら、
福田の締め切りだった」と勘違いされるほどである。
そして、喩えに凝るあまり、今、多くの読者を理解の対岸へ
置いてきぼりにしている気がするのですが、みなさん大丈夫でしょうか。
つまらなくてもこれが俺の持ち味なので、がんばって付いてきてください。
ともかく、いくらこの連載のタイトルが
『気まぐれフクスケのぼちぼち更新コラム』だからといって、
さすがに2週連続で更新を落とすと、
『大塚ニューコーポ』での私の立場がなくなる。
ていうか、もうほとんどない。
つい先日も、8月更新予定の単発企画の制作をしていたのだが、
さまざまなシチュエーションの下、外で写真を撮るというこの企画で、
私は被写体として脱いだり裸になったり裸の上に食べ物を乗せられたり、
なんだかやたらと体を張らされるモルモット的な立場だった。
なんだか最近こういう役回りが多いな…とは思っていたが、
よく考えたらこれは要するに、「言葉で笑いをとれない能無しは、
体を張って笑いをとるしかないぞ」という戦力外通告だったのか。
やばいなあ。
じわじわと崖っぷちに追い詰められてきている気がするのよ。
周囲の顔が片平なぎさに見える瞬間だ。
差別的なことを言うつもりはないけど、現実問題として、
頭を使って笑いを取る人間は、体を張って笑いを取る人間を見くびっていると思うわけ。
つまり、知らず知らずのうちに体を張らされているということは、
マイルドにフェードをかけながら引導を渡されているのと同じことだ。
それだけは、ええいああ、なんとしても避けたい。
おもしろきゃいいとは思っているが、対等じゃないのは嫌だ。
少なくとも、裸になったり痛がったりして笑わせるのは、俺のガラじゃない。
だから今はまだ、がんばって頭と言葉を使ってコラムを書こうと思う。
とはいえ、私が締め切りや計画さえきっちり守る人間だったら、
事態はもう少しどうにかなっていると思うのだ。
なぜ、なーぜこんなにも締め切りを守れないのかなこの俺様は!
という問題は、下山事件以上に戦後史最大のミステリーなのである。
昔はそれでも、なんとかなってたのよ。
さながら窮鼠が猫を噛むように、火事場の天才的能力が発揮できる
ギリギリの「追いつめられ」のデッドラインを心得ていたもの。
それが、いつしか追いつめられすぎて、猫にのどぶえを
噛み切られてジ・エンドになることが増えてきた。
そうなのだ。
チョロQが、一度うしろに引かなければ走れないように、
私は生まれてこの方、追いつめられることなく、
自分から猫を噛みにいったことなんてないのかもしれない。
だとしたら、ちょうどいい追いつめられ方のタイミングを
見きわめられなくなってきた勘の鈍りは、私にとって死活問題だ。
「締め切りを守って、なおかつおもしろいものを書く」ことが両立できない人間は、
「締め切りを優先させて、そこそこのものを書く」か、
「締め切りは破るけど、超おもしろいものを書く」か、
どちらかしか、生きる道がない。
そして後者の道は、売れるか偉くなるかしないと認められないのです。
人は誰もがリリー・フランキーにはなれないのですからしてー!
窮鼠にしかなれないのならば、計画的に窮鼠になるしかない。
だったら私は、「窮鼠になるテク」を磨きたい。
窮鼠初段になりたい。
誰か、『猫に噛みつく窮鼠力』というタイトルで
ビジネス書でも出してくれないでしょうか。
もしくは、『片平なぎさは、なぜ崖に犯人を追いつめるのか』という新書でもいいですから。
そんなわけで今とにかく私は、
遅れたコンテンツの更新を取り戻すために、
次の更新がさらにまた滞っていくという悪循環の回し車を、
カラカラカラカラ走っているハムスターである。
ああ、今なら連載時の作画の乱れを単行本収録時に直すために、
本誌の連載を休んでいた富樫義博先生の気持ちがわかる。
カラカラわかる。
モルモットになったりネズミになったりハムスターになったり、
どうにもげっ歯目なキャラから抜け出せない私なのだった。
第21回 「デブは心の病気です」
- 2009.07.08 Wednesday
- デリカシーには貸しがある
第21回 「デブは心の病気です」
この先の人生、たとえどんな事故や難病に見舞われようとも、
これだけは絶対に自分とは無縁だろうと思っているものがある。
デブだ。
まさか自分がデブにはならないだろうという強い確信があるのである。
これは何も自分の自己管理を過信しているのではなく、
それ以前に、管理しなくても太らないし、太れない体質なのだ。
生まれてこの方、脂肪がつかない代わりに筋肉もない
やせぎすの体型で、そのフォルムは限りなくエヴァンゲリオンに近いし、
胸板もベニヤのように薄く、“平成の歩く細うで繁盛記”と呼ばれている。
空から女の子が降ってきても、腕力がないので受け止めきれず、
薄い胸板をすり抜けてしまい、落として死なせてしまうだろう。
もちろん、ラピュタは一生見つからない。
そんな私だから、世間のほとんどの人が強迫観念のように
抱いている「デブフォビア(デブ恐怖)」を感じたことがない。
そもそも、自分がデブになるというビジョンが思い描けないのだ。
“日本経済再生のシナリオ”のほうがまだ思い描けるくらいに、
どうすればデブになるかがわからない。
①夜遅くに②高カロリーなものを③大量に食べるという
「デブ三原則」を遵守した生活を送っているし、運動もまったくしない。
それどころか、食品のカロリー表示というものを気にしたことが、まずない。
見向きもしない。
にもかかわらず、私が常にエヴァンゲリオン体型をキープしているのは、
身も蓋もない言い方をしてしまえば、「体質だ」ということになる。
逆に、普通に食べているだけなのに太りやすい体質の人も当然いるわけだ。
で、ここで問題発生よ。
アメリカでは、太っていることを理由に自己管理能力が低いなどとレッテルを貼られ、
人事査定でマイナス評価が下されたり、リストラの対象になることもあるという。
だとすれば、私のように体型にこそ表れないが、考え方にデブフラグが立ちまくっている「心のデブ」も、同様に「問題アリ」とジャッジを下されるべきである。
ところが、断罪されるのはいつだって目に見える「フィジカルデブ」ばかり。
そんな彼らの脂肪の影に隠れて、心を肥え太らせている「メンタルデブ」が断罪されないのは、ちとアンフェアではないだろうか。
そう、デブも心の時代なのである。
そのことを象徴するかのように、
私の友人には、さして太っているわけではないのに
完全に「デブキャラ」扱いされてしまう人物がいる。
何を隠そう、大塚ニューコーポのますらおでぶ、その人である。
彼は、がっしりした体格ではあるが、
取り立てて騒ぐほど太っているわけではないし、
最近は実際にダイエットにも成功して、
数字的にはもはやまったくもってデブではない。
しかし、たとえば
「すべての食べ物の中でコーラが一番好き」
「気になるラーメン店に行くためだけに外出することを厭わない」
「激しい運動をすると、疲れるよりも先に物が食べたくなる」
「食後に水が飲みたくなるように、口が自然と菓子パンを欲する」
などといった逸話の数々が、彼の過去をつつくと
肉汁のようにあふれ出すにつけても、
またあるいは、学生時代に金がなくなり、
食べ物が底を尽きて困窮するあまり、
「ティッシュにぽん酢をつけて食べた」という
伝説的エピソードを聞くにつけても、
人をデブキャラたらしめているのは、
体型ではなくその考え方にある、としみじみ思うのである。
そんな私も、人のことは言えない。
生活習慣や心がけは、間違いなくメンタルデブそのもの。
こうなったらいっそのこと、
体重55キロでありながら「デブ」と呼ばれることを目指して、
「デブは脂肪ではない、思想だ」を合言葉に日々を生きようと思う。
最近、ちょっと脇腹がついてきたような気がするのは、もちろん気のせいである。
この先の人生、たとえどんな事故や難病に見舞われようとも、
これだけは絶対に自分とは無縁だろうと思っているものがある。
デブだ。
まさか自分がデブにはならないだろうという強い確信があるのである。
これは何も自分の自己管理を過信しているのではなく、
それ以前に、管理しなくても太らないし、太れない体質なのだ。
生まれてこの方、脂肪がつかない代わりに筋肉もない
やせぎすの体型で、そのフォルムは限りなくエヴァンゲリオンに近いし、
胸板もベニヤのように薄く、“平成の歩く細うで繁盛記”と呼ばれている。
空から女の子が降ってきても、腕力がないので受け止めきれず、
薄い胸板をすり抜けてしまい、落として死なせてしまうだろう。
もちろん、ラピュタは一生見つからない。
そんな私だから、世間のほとんどの人が強迫観念のように
抱いている「デブフォビア(デブ恐怖)」を感じたことがない。
そもそも、自分がデブになるというビジョンが思い描けないのだ。
“日本経済再生のシナリオ”のほうがまだ思い描けるくらいに、
どうすればデブになるかがわからない。
①夜遅くに②高カロリーなものを③大量に食べるという
「デブ三原則」を遵守した生活を送っているし、運動もまったくしない。
それどころか、食品のカロリー表示というものを気にしたことが、まずない。
見向きもしない。
にもかかわらず、私が常にエヴァンゲリオン体型をキープしているのは、
身も蓋もない言い方をしてしまえば、「体質だ」ということになる。
逆に、普通に食べているだけなのに太りやすい体質の人も当然いるわけだ。
で、ここで問題発生よ。
アメリカでは、太っていることを理由に自己管理能力が低いなどとレッテルを貼られ、
人事査定でマイナス評価が下されたり、リストラの対象になることもあるという。
だとすれば、私のように体型にこそ表れないが、考え方にデブフラグが立ちまくっている「心のデブ」も、同様に「問題アリ」とジャッジを下されるべきである。
ところが、断罪されるのはいつだって目に見える「フィジカルデブ」ばかり。
そんな彼らの脂肪の影に隠れて、心を肥え太らせている「メンタルデブ」が断罪されないのは、ちとアンフェアではないだろうか。
そう、デブも心の時代なのである。
そのことを象徴するかのように、
私の友人には、さして太っているわけではないのに
完全に「デブキャラ」扱いされてしまう人物がいる。
何を隠そう、大塚ニューコーポのますらおでぶ、その人である。
彼は、がっしりした体格ではあるが、
取り立てて騒ぐほど太っているわけではないし、
最近は実際にダイエットにも成功して、
数字的にはもはやまったくもってデブではない。
しかし、たとえば
「すべての食べ物の中でコーラが一番好き」
「気になるラーメン店に行くためだけに外出することを厭わない」
「激しい運動をすると、疲れるよりも先に物が食べたくなる」
「食後に水が飲みたくなるように、口が自然と菓子パンを欲する」
などといった逸話の数々が、彼の過去をつつくと
肉汁のようにあふれ出すにつけても、
またあるいは、学生時代に金がなくなり、
食べ物が底を尽きて困窮するあまり、
「ティッシュにぽん酢をつけて食べた」という
伝説的エピソードを聞くにつけても、
人をデブキャラたらしめているのは、
体型ではなくその考え方にある、としみじみ思うのである。
そんな私も、人のことは言えない。
生活習慣や心がけは、間違いなくメンタルデブそのもの。
こうなったらいっそのこと、
体重55キロでありながら「デブ」と呼ばれることを目指して、
「デブは脂肪ではない、思想だ」を合言葉に日々を生きようと思う。
最近、ちょっと脇腹がついてきたような気がするのは、もちろん気のせいである。
第20回 「残り物には汁がある」
- 2009.06.23 Tuesday
- デリカシーには貸しがある
第20回 残り物には汁がある
料理の残り汁にご飯を入れて食べるのが好きだ。
特に、カップラーメンや、ポトフなどの煮込み料理で、
メインとなる麺や具を食べ終わったあとのスープに目がない。
B級グルメにも満たないG(ゲス)級グルメであることは自覚しているが、
その反面、「一人で食事するときはみんなやってるんでしょ?」と
半ば当然のように思っていたので、私のこの食習慣に対して
「意地きたない」「貧乏くさい」と、
道端に吐き捨てられたタンを見るような目で
非難されたときには、正直、面食らった。
え、だって、汁物の料理って、その残り汁にこそ旨みが凝縮されているわけで、
具材を食べきったことは単なる通過儀礼にすぎないというか、
私にとっては「むしろここからがメインイベントだ」くらいの気持ちなのである。
汁こそが本番。
決して、AV男優の下克上の話ではない。
とにかく、私の「残汁道(ざんじるどう)」は筋金入りだ。
「なか卯」でカレーうどんを頼むときには、わざわざ単品でライスも頼み、
うどんを食べ終わった後の残り汁にライスを入れて二度楽しむ。
鶏のから揚げに甘辛い南蛮ソースがかかっていれば、
から揚げはなるべくソースを落として食べ、
余ったソースを寄せ集めてご飯を浸して食べる。
居酒屋で食べ終わった牛すじ煮込みの皿を下げられそうになると、
「まだこの汁が残ってるでしょうがあ!」(田中邦衛のマネで)と
本気で引き止めたくなり、名残惜しさを2分くらい引きずる。
家にいてカップラーメンくらいしか食べるものがないとき、
「ご飯が炊けていない」ことを理由に(残り汁にご飯が入れられない)
カップラーメンを食べること自体をやめたりする。
ことほどさように、「残り汁にご飯を浸す」は、
私にとって「ズボンに足を通す」と同じくらい自然なことなのに、
やんぬるかな、「残汁道」に世間の風は冷たい。
そもそも、「残り汁」という呼び名からして
「残ってるわけじゃねえよ」という憤りを感じてやまないのだ俺は。
「残ったのではない、残したのだ」という、
かの有名なダンテの言葉をあなた方は知らないのか。
ま、そんな言葉はないので知らなくても仕方ないわけだが、
とにかく、ラーメンに替え玉を入れることが、
鍋の最後を“おじや”で締めることが、
何の抵抗もなく当たり前のように受け入れられているのに、
なぜカップラーメンや他の料理の残り汁にご飯を入れることだけが、
こんなにも嫌悪の目で見られなければいけないのか、私には理解できない。
それにしても、なぜ私はときにわざと汁を余らせてまで、
残り汁でご飯を食べることに執着するのだろうか。
たぶん、私の中の基本思想として、
「美味いものは白飯で食いたい」という意識があるのだと思う。
たとえば、焼肉に行くと「ライスを頼んでしまうと、そのぶん肉が
食えなくなってもったいない」みたいな考え方をする人がいるが、
私の場合、たとえ肉効率(米や小麦で満腹にしてしまうのではなく、なるべく
コストパフォーマンスが高い肉で腹を満たそうという配分の割合)は下がっても、
「こんなにご飯と相性のいい肉があるのに、一緒に飯を
食べないことのほうがもったいない」と考え、ライスを頼んでしまう。
そう。
まだそれでご飯が食えるだけの味があるものを、
残したり捨てたりしてしまうのは、もったいない気がするのである。
もっと突き詰めて考えると、私は「おかずとご飯の関係」というものを、心のどこかで
「濃い味の料理は、味をご飯でうすく引き伸ばすことで長持ちさせて食べている」
と考えているようなふしがあり、だから濃い味の料理をご飯なしでそのまま食べるのは、
「味を余らせてしまって、もったいない」ということなのだと思う。
だとすると、実体のない「味」というものに対する
私のせこさ、もったいなさがり加減には常軌を逸したものがあり、
「意地きたない」「貧乏くさい」という周囲の非難も
あながち的外れではないのであった。
でも、美味しいよ、残り汁。
※近日中に、この「残り汁がうまい」という主張だけで、ONCのコンテンツを作るつもりなので、そちらのほうも動向を刮目していただきたい。
料理の残り汁にご飯を入れて食べるのが好きだ。
特に、カップラーメンや、ポトフなどの煮込み料理で、
メインとなる麺や具を食べ終わったあとのスープに目がない。
B級グルメにも満たないG(ゲス)級グルメであることは自覚しているが、
その反面、「一人で食事するときはみんなやってるんでしょ?」と
半ば当然のように思っていたので、私のこの食習慣に対して
「意地きたない」「貧乏くさい」と、
道端に吐き捨てられたタンを見るような目で
非難されたときには、正直、面食らった。
え、だって、汁物の料理って、その残り汁にこそ旨みが凝縮されているわけで、
具材を食べきったことは単なる通過儀礼にすぎないというか、
私にとっては「むしろここからがメインイベントだ」くらいの気持ちなのである。
汁こそが本番。
決して、AV男優の下克上の話ではない。
とにかく、私の「残汁道(ざんじるどう)」は筋金入りだ。
「なか卯」でカレーうどんを頼むときには、わざわざ単品でライスも頼み、
うどんを食べ終わった後の残り汁にライスを入れて二度楽しむ。
鶏のから揚げに甘辛い南蛮ソースがかかっていれば、
から揚げはなるべくソースを落として食べ、
余ったソースを寄せ集めてご飯を浸して食べる。
居酒屋で食べ終わった牛すじ煮込みの皿を下げられそうになると、
「まだこの汁が残ってるでしょうがあ!」(田中邦衛のマネで)と
本気で引き止めたくなり、名残惜しさを2分くらい引きずる。
家にいてカップラーメンくらいしか食べるものがないとき、
「ご飯が炊けていない」ことを理由に(残り汁にご飯が入れられない)
カップラーメンを食べること自体をやめたりする。
ことほどさように、「残り汁にご飯を浸す」は、
私にとって「ズボンに足を通す」と同じくらい自然なことなのに、
やんぬるかな、「残汁道」に世間の風は冷たい。
そもそも、「残り汁」という呼び名からして
「残ってるわけじゃねえよ」という憤りを感じてやまないのだ俺は。
「残ったのではない、残したのだ」という、
かの有名なダンテの言葉をあなた方は知らないのか。
ま、そんな言葉はないので知らなくても仕方ないわけだが、
とにかく、ラーメンに替え玉を入れることが、
鍋の最後を“おじや”で締めることが、
何の抵抗もなく当たり前のように受け入れられているのに、
なぜカップラーメンや他の料理の残り汁にご飯を入れることだけが、
こんなにも嫌悪の目で見られなければいけないのか、私には理解できない。
それにしても、なぜ私はときにわざと汁を余らせてまで、
残り汁でご飯を食べることに執着するのだろうか。
たぶん、私の中の基本思想として、
「美味いものは白飯で食いたい」という意識があるのだと思う。
たとえば、焼肉に行くと「ライスを頼んでしまうと、そのぶん肉が
食えなくなってもったいない」みたいな考え方をする人がいるが、
私の場合、たとえ肉効率(米や小麦で満腹にしてしまうのではなく、なるべく
コストパフォーマンスが高い肉で腹を満たそうという配分の割合)は下がっても、
「こんなにご飯と相性のいい肉があるのに、一緒に飯を
食べないことのほうがもったいない」と考え、ライスを頼んでしまう。
そう。
まだそれでご飯が食えるだけの味があるものを、
残したり捨てたりしてしまうのは、もったいない気がするのである。
もっと突き詰めて考えると、私は「おかずとご飯の関係」というものを、心のどこかで
「濃い味の料理は、味をご飯でうすく引き伸ばすことで長持ちさせて食べている」
と考えているようなふしがあり、だから濃い味の料理をご飯なしでそのまま食べるのは、
「味を余らせてしまって、もったいない」ということなのだと思う。
だとすると、実体のない「味」というものに対する
私のせこさ、もったいなさがり加減には常軌を逸したものがあり、
「意地きたない」「貧乏くさい」という周囲の非難も
あながち的外れではないのであった。
でも、美味しいよ、残り汁。
※近日中に、この「残り汁がうまい」という主張だけで、ONCのコンテンツを作るつもりなので、そちらのほうも動向を刮目していただきたい。
第19回 「一発校了チキンレース」
- 2009.06.17 Wednesday
- デリカシーには貸しがある
第19回 一発校了チキンレース
ここ数週間、私がこの連載を落とすほどにしんどい思いをして
泣きながら編集していたムックの制作が、ここにきてようやく、
おかげさまで無事に一発校了で終わりを迎えようとしている。
編集者にとって「一発校了」とは、
その語感からもうすうす想像がつくように、
ダルビッシュにとっての「一発着床」と同じくらい
ジ・エンドな恐ろしい言葉であって、
意味を知らない非・出版業界の方にあえて説明するならば、
「初めて作った料理を一度も味見をしないで王様に出す」
「ブレーキが利くか確認しないままチキンレースに参加する」
「絶対にチェンジができない出張ヘルス」
みたいなことだと思ってほしい。
厳密にいうと全く違うが、少なくとも気分的には、そんな感じだ。
要するにものすごくアクロバティック。
しかし、そのアクロバティックさ加減は、
シルク・ドゥ・ソレイユというよりは
電撃ネットワークにきわめて近いものであって、
大事なのは技術よりも、口の中で爆竹を鳴らす勇気。
そう、その「勇気」こそが一発校了に必要なものだ。
そんな、帰りのガソリンを積まない神風特攻隊のような志で、
私が一体どんな高尚な学術書を作っていたのかといえば、
インターネットの炎上や祭りといった現象の事例を集め、
その悲惨さ可哀想さあられもなさを、人の不幸を覗き見したい
野次馬精神でもって楽しもうという身も蓋もない企画であって、
当然、デリカシーもへったくれもない下衆な本である
(もちろんこれは貶しているのでなく、「下衆に徹しているから素晴らしいのだ」というフェーズが賛辞として通用する世界観や価値観があるってことくらい、懸命な読者はわかってくれるだろうと思う。実際、すごくおもしろいし、これまで自分が編集を手がけた本の中でもお気に入りの一冊だ。買え!)。
とにかく、書店で「デリカシー」と「ノンデリカシー」のコーナーがあったら、
確実に「ノンデリカシー」のコーナーの書棚に置かれるような
(めんどくさいからツッコミ不要)この本の編集作業を通して、
私が心底みなさんに残したいと思ったメッセージはたったひとつ。
みんな、ハメ撮りだけはダメ!ゼッタイ!!
あれだけ苦労したのに死ぬほどうすっぺらいメッセージしか残せなかったが、
これはでも本当に、マジで守ってほしい。
誌面では、ファイル共有ソフトがウイルスに感染していたため、
彼女や浮気相手とのファックシーンを撮影した画像や動画が
丸ごと流出してしまったカップルを紹介しているのだが、
心あるネットユーザーのたゆまぬ努力の甲斐あって、
その男女の実名や住所、勤務地が探り当てられたり、
職場に電話をかけられたり、果ては実家に押しかけて
写真まで撮られたりしておるのですよ。
恨みつらみのまったくない、あまつさえ面識すらない
一般人の素人カップルに対して、
「なに? あんたらゾルゲ?」
というほどの諜報能力を結集して素性を晒してやろうという、
ネットユーザーのその由来不明の執着心に、
身の毛がよだつを通り越して、
“身そのもの”がよだつのである。
で、そのトロピカルなマンゴーを流出させちゃった
女っていうのがまた、そこそこかわいいんだ。
…ね。
いや、なにが「ね」なのかと思うだろうが、
結局そういうことなんですよ。
つまり、「俺らよりステータスが上でリアルが充実した人間が、
かわいい彼女とこんなことしてる……ざまあみやがれ」
という露骨なルサンチマンを、なんの臆面もなく
暴発させていいってことになってるのが、
炎上や祭りに群がるネット連中の下衆なところだと思うわけ。
不謹慎な発言したとか、非道徳的なこと書いたとか、反社会的なことしたとか、
確かにブログでうかつに書くほうも書くほうだとは思うし、
日記を読まれたりメールを読まれたり手紙を読まれたりするにつけても、
人は言わなくていいことをわざわざ言葉にしてしまいがちな存在であって、
人の不幸とは、「文字にしてしまう不幸」のことである、とすら思っている私だ。
文字さえ書かなければ、人類に訪れる不幸のレパートリーはかなり少なかったはずだ。
だけどね、だけどさ。
とにもかくにも、なにがなんでも、
「なんかうまいことやってるヤツがいるから足を引っ張ってやれ」
というのが、ホリエモン以降、日本人の気分を動かしている
原動力になっているような気がして仕方がない私であって、
そのはしたなさ節度のなさデリカシーのなさは、ちょっと異常だよ。
人間にホンネとタテマエがあること自体はまったく悪いことではないが、
日本人はその落差がちょっとえげつなさすぎると思う。
タテマエの壁が高すぎるし、ホンネの底が深すぎる。
身元を明かして、面と向かって言えないようなことは書くべきでないと私は思うが、
逆に言えば、身元を明かして、面と向かってさえいれば、ほとんど何でも言っていいとも思っている。
陰でコソコソするのが一番よくない。
…って、なんか、さんざん書いておきながら
ものすごく凡庸な結論になってしまったけれど、
実はそれが一番難しいのではないかとも思うのだった。
でも、一度流出しちゃうと取り返しがつかないので、
ハメ撮りだけはホント、やめたほうがいいです。
ここ数週間、私がこの連載を落とすほどにしんどい思いをして
泣きながら編集していたムックの制作が、ここにきてようやく、
おかげさまで無事に一発校了で終わりを迎えようとしている。
編集者にとって「一発校了」とは、
その語感からもうすうす想像がつくように、
ダルビッシュにとっての「一発着床」と同じくらい
ジ・エンドな恐ろしい言葉であって、
意味を知らない非・出版業界の方にあえて説明するならば、
「初めて作った料理を一度も味見をしないで王様に出す」
「ブレーキが利くか確認しないままチキンレースに参加する」
「絶対にチェンジができない出張ヘルス」
みたいなことだと思ってほしい。
厳密にいうと全く違うが、少なくとも気分的には、そんな感じだ。
要するにものすごくアクロバティック。
しかし、そのアクロバティックさ加減は、
シルク・ドゥ・ソレイユというよりは
電撃ネットワークにきわめて近いものであって、
大事なのは技術よりも、口の中で爆竹を鳴らす勇気。
そう、その「勇気」こそが一発校了に必要なものだ。
そんな、帰りのガソリンを積まない神風特攻隊のような志で、
私が一体どんな高尚な学術書を作っていたのかといえば、
インターネットの炎上や祭りといった現象の事例を集め、
その悲惨さ可哀想さあられもなさを、人の不幸を覗き見したい
野次馬精神でもって楽しもうという身も蓋もない企画であって、
当然、デリカシーもへったくれもない下衆な本である
(もちろんこれは貶しているのでなく、「下衆に徹しているから素晴らしいのだ」というフェーズが賛辞として通用する世界観や価値観があるってことくらい、懸命な読者はわかってくれるだろうと思う。実際、すごくおもしろいし、これまで自分が編集を手がけた本の中でもお気に入りの一冊だ。買え!)。
とにかく、書店で「デリカシー」と「ノンデリカシー」のコーナーがあったら、
確実に「ノンデリカシー」のコーナーの書棚に置かれるような
(めんどくさいからツッコミ不要)この本の編集作業を通して、
私が心底みなさんに残したいと思ったメッセージはたったひとつ。
みんな、ハメ撮りだけはダメ!ゼッタイ!!
あれだけ苦労したのに死ぬほどうすっぺらいメッセージしか残せなかったが、
これはでも本当に、マジで守ってほしい。
誌面では、ファイル共有ソフトがウイルスに感染していたため、
彼女や浮気相手とのファックシーンを撮影した画像や動画が
丸ごと流出してしまったカップルを紹介しているのだが、
心あるネットユーザーのたゆまぬ努力の甲斐あって、
その男女の実名や住所、勤務地が探り当てられたり、
職場に電話をかけられたり、果ては実家に押しかけて
写真まで撮られたりしておるのですよ。
恨みつらみのまったくない、あまつさえ面識すらない
一般人の素人カップルに対して、
「なに? あんたらゾルゲ?」
というほどの諜報能力を結集して素性を晒してやろうという、
ネットユーザーのその由来不明の執着心に、
身の毛がよだつを通り越して、
“身そのもの”がよだつのである。
で、そのトロピカルなマンゴーを流出させちゃった
女っていうのがまた、そこそこかわいいんだ。
…ね。
いや、なにが「ね」なのかと思うだろうが、
結局そういうことなんですよ。
つまり、「俺らよりステータスが上でリアルが充実した人間が、
かわいい彼女とこんなことしてる……ざまあみやがれ」
という露骨なルサンチマンを、なんの臆面もなく
暴発させていいってことになってるのが、
炎上や祭りに群がるネット連中の下衆なところだと思うわけ。
不謹慎な発言したとか、非道徳的なこと書いたとか、反社会的なことしたとか、
確かにブログでうかつに書くほうも書くほうだとは思うし、
日記を読まれたりメールを読まれたり手紙を読まれたりするにつけても、
人は言わなくていいことをわざわざ言葉にしてしまいがちな存在であって、
人の不幸とは、「文字にしてしまう不幸」のことである、とすら思っている私だ。
文字さえ書かなければ、人類に訪れる不幸のレパートリーはかなり少なかったはずだ。
だけどね、だけどさ。
とにもかくにも、なにがなんでも、
「なんかうまいことやってるヤツがいるから足を引っ張ってやれ」
というのが、ホリエモン以降、日本人の気分を動かしている
原動力になっているような気がして仕方がない私であって、
そのはしたなさ節度のなさデリカシーのなさは、ちょっと異常だよ。
人間にホンネとタテマエがあること自体はまったく悪いことではないが、
日本人はその落差がちょっとえげつなさすぎると思う。
タテマエの壁が高すぎるし、ホンネの底が深すぎる。
身元を明かして、面と向かって言えないようなことは書くべきでないと私は思うが、
逆に言えば、身元を明かして、面と向かってさえいれば、ほとんど何でも言っていいとも思っている。
陰でコソコソするのが一番よくない。
…って、なんか、さんざん書いておきながら
ものすごく凡庸な結論になってしまったけれど、
実はそれが一番難しいのではないかとも思うのだった。
でも、一度流出しちゃうと取り返しがつかないので、
ハメ撮りだけはホント、やめたほうがいいです。
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