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デリカシーの機微が問われる現代社会のさまざまな局面に、ぼんやりと警鐘を鳴らす無神経なコラム。

アーカイブ: 2009/03

第09回 「壊れかけのゲシュタルト」

第09回 壊れかけのゲシュタルト

あなたが何か本を読んでいるとするでしょ。

話をわかりやすく具体的にするために、ここでは仮に
押切もえの『モデル失格』を読んでいる、ということにしましょうよ。
もしどうしても嫌な人は、勝間和代の『断る力』でもいいですよ。

で、その中にたとえば「勃起」という言葉が出てきたとして、

「勃起に必要なのは、まず第一に人脈です」
「弱火で両面がこんがりときつね色になるまで勃起し…」
「農民たちは地主の圧制に対して一斉に勃起を起こしました」
「衣笠茸とよく似た形状を持つ小型の勃起茸は神経性の猛毒を持ち…」
「新自由主義的な米国型資本主義の勃起型経済構造においては…」
「5コマ漫画の展開は勃起承転結が基本です」

といった風に、同じ言葉が何度も何度も繰り返し出てくると、
不意に「あれ、“勃起”って本当にこんな字だったっけ?」
妙に違和感を覚えることがあるじゃないですか。

これを認知心理学の用語で「ゲシュタルト崩壊」と言うらしいんだけど、
そしておそらく『モデル失格』にも『断る力』にも
「勃起」という言葉は1回も出てこないと思うけど、
この現象は、身の回りでかなり頻繁に起きていると思うわけよ。

たとえば、今うちの部屋にはあだち充の『ラフ』がベッドの脇で全巻
平積みになっているんだけど、これを気分が落ちているときにじっと見てると、


ララララララララララ
フフフフフフフフフフ


という文字列がゲシュタルト崩壊を起こして


う う う う う う う う う う
つつつつつつつつつつ

と見えるのな。
人が落ちてるときに、あんまりな追い討ちなのである。

「癌」という字もずっと見ているとゲシュタルトが
崩れて「ダースベーダーの顔」に見えてくるし、
「マリリン・マンソン」は「マソソソ・マソソソ」に…って、
なんだかナイツのネタみたいになってしまったが、
とにかく、そういうことはきわめてしばしば起きる。

ゲシュタルトとはもともと「全体としてのまとまり」という意味だから、
言葉に限らず、たとえば人の顔とかにもゲシュタルトは存在するだろう。

ずっと見ているとゲシュタルト崩壊を起こしやすいのは、
たとえばともさかりえ麻生太郎の顔であって、
彼らは顔のパーツが三々五々「流れ解散」しているような印象を受けるが、
そして今、私はどさくさ紛れにひどいことを書いているのかもしれないが、
マイケル・ジャクソンのように本気でゲシュタルトが危機の人もいるので、
あえてそちらには触れない。

あるいはまた、大量脱退と新加入を繰り返して「モーニング娘。」
としてのゲシュタルトが崩壊してしまったり、
「関ジャニ∞」のようにそもそものゲシュタルトがはっきりしないグループもおり、
また、度重なる路線変更によって芸風がゲシュタルト崩壊を起こしてしまった人、
逮捕された音楽プロデューサーの元彼女や、落語家の元嫁のように、
人格のゲシュタルトがヤワヤワになってしまった人など、
芸能界はきわめてゲシュタルトが崩壊しやすい世界であるといえよう。

他にも、ゲシュタルト崩壊を起こしやすいものはたくさんある。
書店のビジネス書コーナーにおける勝間和代の顔アップの表紙とか。
あと、勝間和代っていう名前そのものとか。

そんな中で、今私がもっとも気がかりなのは、
実は「イチロー」のゲシュタルトなのである。

いつからか、イチローが試合の後にペラペラとしゃべりだすようになってから、
「あれ、イチローってこんなこと言う人だったっけ?」
「あれ、この人ってこんなに危なっかしいキャラだっけ?」
「ていうか、この人ってこんなに瞳孔開いてたっけ?
と、どんどんゲシュタルトが崩壊してきてしまった気がする。

特に、韓国のことを悪しざまに言うときのゲシュタルトが、危ない。

もちろん、先日のWBCでの奇跡のような活躍に対しては、
最大級の賛辞を贈りたい気持ちはあるものの、
ほとんど何を言っているのかわからないあのヒーローインタビューを見るたびに、
やはり私の心には、イチローに対する言い知れぬ「心配」がよぎり、
思わず聞きたくなってしまうのだ。

「あなたのゲシュタルト、崩壊してませんか?」と。

ま、かくいう私も、生き方のゲシュタルトはもはやグズグズですけどね。
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第08回 「永遠の予後不良」

第08回 永遠の予後不良

春です。

春うららです。

そういえば昔、ハルウララって馬がいたよね。

レースに決して勝てない、その「弱さ」がかえって注目を浴び、
いわば「負ける」ことで人気的には逆に「輝く」という
オリジナルな勝ち方でのし上がった馬だったわけだが、

今思えば、まだ「下流社会」という言葉が生まれるはるか以前、
「敗者には敗者の輝き方がある」ということを
初めて教えてくれたのが彼だったのかも知れない。

当時、ハルウララの人気を目の当たりにした私は、
しみじみこう思ったものだ。


羨ましい。


そのときの私がハルウララを見つめる視線は、
きっと女王様にいたぶられる奴隷を見つめる
M男の眼差しと同じだったはずである。


俺も、あんな風になりたい。

そう思い、ターフを勢い余って疾走したら、足首を粉砕骨折。

競馬の世界では、故障してもう競走馬として復帰できないことを「予後不良」と呼び、
それは暗に安楽死させられることを言い含んでいるのだが、

私の人生は、そうして骨折した後、ずっと安楽死されずに
予後不良のまま生き続けているみたいなもんだ。


ハマの大魔神 佐々木主浩

とか、

不発の核弾頭 爆笑問題

とか、人の名前に付くアオリの代名詞にもいろいろあるが、

永遠の予後不良 福田フクスケ

…こんなにつらいキャッチコピーは他にないだろう。


そう、終わらない予後不良はつらい。

正しいタイミングで物事を終わらせるというのは、
だから重要なことなのだよ、みなさん。


たとえば、紀香と陣内の離婚が連日のように報道されているが、
私にしてみればこれは、終わるべきものが然るべきときに
終わりを迎えただけの話であって、

「格差婚」というものに必要以上のロマンを感じていた人たちのがっかり感も、

「そら見たことか」と必要以上にしたり顔であげつらう人たちの優越感も、

私にはちーっとも理解ができないというか、おもしろみを感じない。


この話は、お互い「芸人の妻」になる気概も、
「女優の夫」になる心構えもなかった2人が、
やっぱり「同じ夢を見ることはできなかった」という、
ただそれだけのシンプルな話であって、
そこに「格差」も「美人女優」も「陣内の浮気」も、
一切持ち出す必要はナッシングだと思う。


2人がうまくいかなかったのは、
体の相性でも性格の一致でも愛情の深さでもなく、
「これがないと自分が自分でなくなっちゃう」という自我のベースが
決定的に違う世界にある2人だったから、ただそれだけだ。
人間同士が深い関係を切り結べるかどうかの決め手は、
ほとんどそれしかないと言ってもいい。


私は今でも覚えているが、
2人の結婚報道に世間が湧き立っていた頃、
バラエティ番組で陣内が紀香との結婚を茶化されるたびに、
彼は芸人だから当然それを笑いで処理しようとするんだけど、
彼ほど腕のある芸人が、素人目にもわかるくらい不自然に
いつもいつも一瞬だけ「空気が淀む」のな。

明らかにそのときの陣内の表情には、何らかの
戸惑いやためらい、躊躇、遠慮がよぎっており、
そのとき私は、この2人が長く続かないことを確信したのだ。


いわば2人は、始まったときからすでに予後不良だったわけで、
それはもう安楽死させるのが人道的だろうという話だ。
可哀想だからっていたずらに生き延びさせて苦しませたり、
屠殺して馬肉にして売ったりしちゃいかんと思うのだ。


何かを終わらせることは罪じゃない。

折れたからって負けではない。

往年のハルウララのように、「負けて輝く」術を誰もがそつなく身につける。

そろそろ、現代人はそれくらい成熟したステージに到達すべきだと思う。


ちなみに私は、第2回の連載であれだけ
「異性の前で動物をかわいがる」ことのふしだらさを
「デリカシーがない」と批判しておきながら、

つい先日、デートのような流れであっさりと、
それはもういけしゃあしゃあと猫カフェに行ってしまったのだった。
でもって、思うさま猫をかわいがってしまったのだった。

だからってそれを、決して「屈した」とは思わないでほしいのである。

あくまで前向きに折れた?

ていうか、折れたらたまたま方向が「前」だった?

そういう風に解釈してはくれないだろうか。
そして、これを「開き直り」と呼びたければ呼べばいいじゃないか。

ああ、いいじゃないか!
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第07回 「時には毒のない蝮のように」

第07回 時には毒のない蝮のように


落ちた。

連載の話ではない。
…って、いや、もちろん連載もじゅうぶん落ちているわけだが、
それ以上に、もっと人間として大事なものが、いろいろ落ちた気がして、深く反省している。

その上、連載まで落としてはいよいよ人として
だめだと思うので(だからもう落としてるんだけど)、
今回は、時間がないことを表わすためにフォント大きめの
エマージェンシーレイアウトでお届けしてもいいだろうか。
だめって言われてもそうするんだけどさ。

私は、午前10時とか11時とかに平気でタクシーに乗って会社へ行く社会のクズですが、
そんなクズにとっても、車内を流れる『大沢悠里のゆうゆうワイド』は心のオアシスであって、
特に毒蝮三太夫先生のコーナーには、いつも心洗われる思いになるのですね。

彼の高齢者いじりのテクニックには、実に学ぶところが多いと思う私なのです。

彼は、世間的には「毒舌キャラ」ということで通ってはいるが、
実のところ、彼の言葉は「ババア」たちをちっとも傷つけないように配慮されている。
本当に人を傷つける核心からはきちんと的をはずし続ける絶妙な采配を振るっており、
それでいてトータルイメージとしての「毒舌」という印象を残すことには見事に成功しているのだ。
「ババア、長生きしろよ!」は、昭和に誕生した日本最古の「ツンデレ」である。

難しいことを言ったが、要するに、毒蝮の毒舌は絶妙に「当たり障りがない」のだ。
途端に言い方がしょぼなくなってしまったきらいはあるものの、
しかし諸君、当たり障りがないってことをばかにしてはいけない。

当たり障りがないことを言えるのは、それだけで「うまく生きていく力」だと、私は思う。
たとえば、お昼のワイドショーに出ている人は、おしなべて一様に「当たり障りのない才能」を持っている。
大和田獏、大下容子、佐々木正洋……。
今、たまたま全員『ワイドスクランブル』の出演者ばかりになってしまったが、
彼らは揃いもそろって当たり障りがない。

映画にコメントをするおすぎ、グルメレポートをする彦麻呂、あるいは、恵俊彰の存在そのもの。
彼らもまた、「当たり障りがない」からといって責められることはないし、
むしろその「当たり障りのなさ」のおかげで、決して食いっぱぐれない。

泉谷しげるや井筒監督も、一見、頑固な怒りオヤジのキャラをかぶり、
「毒舌」に見せかけてはいるが、「実は言ってることはそうでもない」という意味では
やはり圧倒的に当たり障りがない人たちである。
ただ、彼らの場合は、底の浅いキャラ付けのせいで、
いざメッキが剥げたときのしょぼさが際立ってしまったのが失策であった。

その点、やはり毒蝮師匠の毒舌は、
正露丸が糖衣でくるまれているように「人情」でくるまれている。
無理のない、持って生まれた自然体の「当たり障りのなさ」なのだ。
これが、綾小路きみまろでは、こうはいかない。
彼は基本的に「どや顔」で毒舌を吐く。
そのどや顔が、人々の心を逆なで、
引いては「ヅラも暴いてやろう」という気にさせるのである。

何はともあれ、毒を吐くなら毒蝮のようにありたい。
なんなら、毒蝮そのものになりたい。
俺も、全国のマルエツやドラッグストアの店頭で、ジジイ、ババアに囲まれて和やかに談笑したい。

なぜ、そんな心にもないことを思うのかといえば、
今の私が、とても「当たり障りのある」状態にあるからで、
口を開けば当たり障りのあることを言ってしまいそうで仕方がないのだ。
必死で、何か関係のない、たとえば「加護ちゃんはそろそろハッスルに出て、インリン様の後を継げばいいのに…」とか楽しいことを考えて気を紛らわそうとするが、今こうしている間も綱渡りである。
こんなとき、当たり障りのなくいられる人が、心底羨ましい。

毒蝮だって、時には虫の居所が悪いときだってあろう。
そんなとき、目の前のババアに「この腐れ干し柿め!落ち葉の下で朽ちろ!」とか言って当たり障りたくなるときもあるだろう。
そんなとき、どうやって毒蝮は当たり障りなく、荒ぶる気持ちを抑えているのか。
知りたい。切に知りたい。
誰か、私に「当たり障り」の作法を教えてくれんだろうか。

とにかくその日、どうにも行き場のない気分だった私は、十分に「当たり障りのある」人をうやむやに抱き締め、人生最初の「同意のないキス」を、その人にしてしまったのだった。

落ちた。
人として、落ちた。
私にデリカシーを語る資格など、もうとっくにないのである。

ババア、そしてこれからババアになりゆく未来のババア、
みんなみんな、長生きしろよ!
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第06回 「不問に付されて仲間のように」

第06回 不問に付されて仲間のように

いきなりだが、私は「不問に付す」という言葉が大好きだ。

全体的にどことなく『ベニスに死す』を彷彿とさせる字面もかっこいいし、
「ふもんに・ふす」と全体を「ふ」でコーディネートしたライムの踏み方は、
「ガリレオ・ガリレイ」や「野比のび太」と通じるところがあってクールである。

そして何より、「問題をあえて問いたださないこと」という意味が素敵だ。
確かに問題はあるのに、それをあえて問題と見なさずに黙認する寛大さ、懐の深さ。
私のような人間にとっては、とてもありがたい、“助かる”言葉である。

「見えている」ものを“お気持ち”の力で無理繰り「見えていない」ことにして
スルーする心の持ちようは、いかにも日本人的であるとも言えるが、
見たくないことや聞きたくないことまで、思いがけず
ホイホイ知ることができてしまうこのご時世にあって、
ショッキングなできごとを受け止める際の「それでも強く生きるテクニック」として、
「不問に付す」というのは、きわめて重要なデリカシーのあり方ではないだろうか。

そして、「不問に付す」を語るにあたって、私が今とても気になっているのが、
「仲間由紀恵という存在の不思議さ」なのである。

仲間由紀恵という女優は、「不自然」だと思う。
今さら言葉を濁すつもりもないが、これは「不自然」としか言いようがない。
彼女の演技には、どこか浮世離れしているというか、地に足が着いていない違和感がある。
少なくとも、現在の俳優に求められている演技の「うまさ」とか「リアリティ」とは違うところに、彼女の演技観の軸足は置かれている。

しかし、彼女の難しいところは、それを単に「へた」と切って捨てることができない点だ。
そこが長谷川京子や伊東美咲と違う点であって、仲間由紀恵のそれは、「うまい」でも「へた」でもなく、「不自然」としか言いようがないのである。
テレビ業界も彼女の扱いを巡ってはうろたえたに違いなく、だからこそ彼女は
『トリック』や『ごくせん』のようなトリッキーな世界観に当てはめることで、
その「不自然」を相殺され、現にこれらの作品における彼女は、「はまり役」だった。

いわば仲間由紀恵は、女優としての実力をまさに「不問に付される」ことで、
かえってその立ち位置をうやむやにのぼり詰めてきたといってもよい。
不問に付されて、輝く。
そういうスターダムもあるのだということを、彼女は教えてくれたのである。

そして、現在放送中の『ありふれた奇跡』という
TVドラマでも、仲間由紀恵は見事に不問に付されている。
そして、その「不問に付され方」は、シナリオ界の巨匠・山田太一の
手腕によって、新たなステージに突入したといってよい。

山田太一のドラマは、台詞回しが独特なことで知られ、
それが一種ファンタジックな持ち味を醸し出しているわけだが、
若い未熟な役者がへたに演じようものなら、それは「不自然」以外の
何物でもなくなってしまうという大きなリスクを抱えている。

ところが、仲間由紀恵においては、その持ち前の不自然さと、台詞回しの不自然さが、
(不自然)×(不自然)=(かえってあり)
という奇跡の化学反応を起こしており、あろうことか
「こういう人って、確かにいるかも」と思えるまでになっているのである。
もちろんこれは、山田太一のほとんど完璧ともいえる人物造型や
場面設定、台詞運びの巧みさのおかげだろうが、ここで私はハタと気付いたのな。

ひょっとして仲間由紀恵は、演技が不自然なのではなく、
もともとのパーソナリティの持ち方やコミュニケーションの取り方を、
自分で統合しきれていない人なのではないかと思ったのだ。
そう考えると、長谷川京子や伊東美咲なども、
どこか自分の感情の解放の仕方がわかっていないような印象を受け、
そして彼女たちは、きまって同じ傾向の美人である。
おそらくはこの辺りに彼女たちのねじれた自我形成の秘密がありそうだが、今はそれを問うときではない。
まじめに精神分析するほど、このコラムはちゃんとしてない。

ともかく、山田太一は、そこまでまるっとお見通しで
仲間由紀恵にこの役を「当て書き」したに違いなく、
これはもうまさにプロフェッショナルの「不問に付し方」というか、
ここまでくれば不問に付されるほうも、“不問に付され冥利”に尽きるってもんである。

思えば、あらゆることを「不問に付す」ことで、世の中は成り立っている。
中川昭一が本当に酩酊していたのかは、結局、不問に付されているし、
谷亮子の妊娠が計画的なのか否かも、世間はたぶん不問に付すだろう。
「草刈正雄がヅラなのかどうか」「森光子と東山紀之の仲がどうだったのか」などは、
むしろぜひ率先して不問に付しておきたいところだ。
不問に付すから、うまくいくこともある。

隠したって、問題はある。
それはもう、致し方なくそこに存在しており、隠したってしょうがないのだ。
だから私は、人生とはそれをどこまで不問に付すのか、不問に付せるのか、
そのデリカシーのギリギリの瀬戸際を、人とすりあわせていく作業であると思う。

できれば私も、不問に付されて付されまくって、付され尽くした
その波打ち際で、仲間由紀恵とジャブジャブ遊んでいたい。
不問に付されて、仲間のように生きたい。

だからもちろん、月曜日更新のこのコラムを落としたことだって、
不問に付して欲しい気持ちでいっぱいなのだ。
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