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デリカシーの機微が問われる現代社会のさまざまな局面に、ぼんやりと警鐘を鳴らす無神経なコラム。

第16回 「服を脱ぐようにカラオケを」

第16回 服を脱ぐようにカラオケを

カラオケは、あられもない。

少なからず私のことを知っている人なら、私がこのことをあらゆる場所で
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も、
口を漬けすぎたキムチのように酸っぱくして言い続けているのをご存知だろう。

「カラオケは、あられもない」は、
「吉野家のテイクアウトのビニール袋は妙に長い」
「松屋のカレーの味はエッジが利き過ぎている」
と並んで、私が日頃から声高に吹聴してやまない「3つの主張」のうちのひとつであり、
なぜ3つのうち実に2つが牛丼屋チェーンにまつわる話で占められているのかは
この際、不問に付して欲しいのだが、とにかくこの主張は私の中でここ数年揺るがない。

そもそも、「自分の歌いたい曲」を持っている時点でもうはしたないし、
それを自分が原曲キーで歌えるかどうか知っているのも、しゃらくさい
下手なら人前で歌うなとも思うが、逆に上手かったら上手かったで、
そこまでに経たであろう「練習していた時間」というものの存在を感じさせて、
それもまた、いたたまれない

もうすぐ没後7年になることに追悼の意を表して、
あえてナンシー関っぽい言い方をするならば、カラオケは
「自分はこういう歌を歌うキャラである」というプレゼンではなく、
「自分はこういう歌を歌うキャラだと思われたい人間である」という自意識の自己申告だ。
別にそれほどナンシー関っぽくはないし、
没後7年はもちろん何の節目でもないが、
それでもあえて言ってみた。

生きるとは、とりもなおさず自己申告の連続である。
たとえば、スーパーのレジに並ぶ人の買い物カゴには、
ありとあらゆる欲望の自己申告があふれている。

私は菓子パンの好きな人間です。
私はコーラスウォーターばかり飲む人間です。
私は今夜のおかずをコロッケにしようとしている人間です。
私は今、家のトイレットペーパーを切らしている人間です。
私はこれから生理がはじまる人間です(しかも多いです)。
私はかかとをなめらかにしたい人間です。
私はさかむけをケアしたい人間です。
私はシートで熱を冷ましたい人間です。

後半はほとんど小林製薬の商品を買っていただけだが、
ひとたび、そういう目で買い物客を見てみると、
「欲しがり屋さんの欲望ダダ漏れ最前線」といった感じで、
なーんかこっちが顔を赤らめたくなる。

ただのスーパーでさえそうなのだから、薬局!
薬局のレジ係で働いている人なんか、もうどうなっちゃうんだろう。
「うわ、この人、整髪料で毛先を遊ばせたいんだ…」とか、
「この人、かみそり負けを気にしてるんだ…」とか、
「あ、膣カンジダなんだ…」とか考えただけで、
毎日がウハウハなのではないだろうか。
そしてこの話、書けば書くほど俺が変態に見えてくるが大丈夫だろうか。

だから言わんこっちゃないのである。

…って、何が「だから」なのかわからんが、
人はこうして黙って生活しているだけで、
すでに十分すぎるほどの情報量を自己申告してしまう生き物である。
その上、何が楽しくてカラオケまでして、
自分の「自己演出のプラン」まで人にバラさなければいけないのか。

うるさい。
歌のボリュームはともかく、
その自意識がうるさい。

だから私は、やむを得ずカラオケで歌わざるを得ないときは、
「たまたま歌ってみたら上手かった」
「歌えるかどうか試しに歌ってみた」
「ネタとしてみんなにウケる持ち曲」
のいずれかのスタンスしか選ばないようにして、
カラオケが「自意識の演出装置」になることを
極力避けるようにしている。


…とかなんとか言いつつも、
頼まれもしないのにこんなブログを
いそいそ書き続けている時点で、
私だって、過剰に自己申告をしたがる自意識の
「申告したがり屋さん」であることに変わりはなく、
人生という名のカラオケをあられもなく、
高らかに歌い上げている
人間の一人である。

そう、大切なのは、そういう「含羞」の感覚だ。
私ごときが、恥ずかしい人間で、すみません。
みんながそう思っていれば、世の中の
傲慢さの目盛りが1ミリ下がると思う。

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