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デリカシーの機微が問われる現代社会のさまざまな局面に、ぼんやりと警鐘を鳴らす無神経なコラム。

アーカイブ: 2009/05

第17回 「うつとマスクとビックリマン」

第17回 うつとマスクとビックリマン

豚インフルエンザ対策に買ったマスクを、
みなさんどこに持て余しているのか、そろそろ白状してほしいのです。
後ろ手に隠しているなら出してほしいのです。
ジャンプしたり、靴の裏を見せてほしいのです。

だってさあ、あれだけ「品切れ」とか「入荷待ち」とか言ってたクセに、
実際、街を歩いてみると、みんなびっくりするほどマスクをしてないのである。
口元、丸出しなのである。
口元丸出しで、ウヘヘヘ…ってよだれ垂らして笑ってるのである。
いや、それは春なので俺がたまたま見た幻だったかもしれないが、
せっかく買ったんなら、もっと“普段使い”してこうぜって話なのよ。

確かに、「今がまさに俺のマスクかけどき」という
ふんぎりがなかなかつかない気持ちもわかる。

だって、ここ数年のマスクときたら、
医者がオペで使うようなヒダがついていたり、
エッジの利いた「キャシャーン」みたいなイカツイものばかりで、
「なんか風邪っぽい」程度の人間が、軽い気持ちで
うかつに使うには“本気すぎる”のである。

「旅館のピンポンで本気になるなよ」とか、
「通夜ぶるまいの寿司、本気で食うなよ」とか、
本気になるタイミングを見誤ると、人は恥ずかしいことになるが、
あんまり早い時期から本気マスクをかけて、
ビビリと思われるのは避けたいというチキンレース的な思いが、
人々の心の中で未だにわだかまっているのではないか。

しかも、本来は「予防」のためにするはずのマスクなのに、
むしろマスクを装着している人のほうが「絶賛感染中」みたいな
ビジュアルになってしまうため、周囲からエマージェンシーな目
見られてしまう、という危険性もある。

しかし、人目を気にしてマスクができないくらいなら、
そもそもなんでマスクなんか買ったんだ、という話である。
する気もないマスクを買い占めるほど、人々は何を恐れたのだろうか。
「豚インフルエンザ」の「豚」って部分か。

たぶん人々が恐れたのは、「新型インフルエンザの蔓延」という、
具体的に何を恐れたらいいのかわからない
漠然とした不安そのもの
だったと思うのな。
だからそれを、「マスク」という具体的で目に見えるものを
手に入れる
という簡単な行為に置き換えて、
とりあえずの不安を解消させたのである。

これってあれな、すごく不謹慎なたとえだけど、
うつの人がリストカットするのと似てるよね。

あれはさ、抱える苦しみの正体が自分でもわからなくて辛いから、
わかりやすくこれだと言える「痛み」の場所が欲しくて切るわけじゃない。
手首切っても、本当に死ぬつもりはないのと同じで、
マスクさえ買ってしまえば、本当に使う必要はないのである。
シールさえ抜き取ってしまえば、ビックリマンチョコはもう要らないのである。

つまり、人は必ずしもチョコが食べたくて
ビックリマンチョコを買うわけではない
ってことだ。

何かは何かの代償行為。
欲望の対象がチョコではなくシールにある以上、
本当はビックリマンチョコは
ビックリマンキャラメルでもビックリマン大福でも
ビックリマンマギーブイヨンでもよかったのかもしれない。

しかしそれでは、シールに30円も50円も
払うことの後ろめたさに堪えられないから、
「あのウエハースチョコも、あれはあれでおいしかったよね」とか、
「なんだかんだ言って、あのウエハースチョコあってのビックリマンだったよね」と人は思うのだ。
否、思おうとするのだ。

だって、そう思わなければ、
自分がそのチョコだったときの虚しさに堪えられないからだ。

こと人間関係においては、
「私はあの人にとって、誰の代償物なのだろう…」
などと思いつめると死にたくなるので、やめたほうがいいと思う。

「チョコが好き」「手首切りたい」「マスク買いたい」
その表面的なニーズが、実はいくらでも入れ替え可能なことに
気付いて平気でいられるほど、私たちの日常はまだ磐石じゃない。

さて、シールを抜かれたビックリマンチョコは
捨てられて社会問題になったが、
買い占められたマスクは今、誰がどうしているのだろうか。

風呂場の排水溝に詰まっているのだろうか。
下水の片隅に浮いてたりするのだろうか。
そのうち海に流れ込み、海一面を白く多い尽くして
豊かな漁場を荒らしたり
するのだろうか。

この際だから、何か全く新しいマスクの使い方を
編み出してみるのもいいかもしれない。


猿ぐつわの代わりに。
コーヒーフィルターの代わりに。
パーティー時の紙皿・紙コップに。
超極小セクシー下着として。
いっぱいつなげて卒業式で川に流す。

ミルクをたっぷり染み込ませて揚げる。
株券として。
カツオだしで煮込んだマスクを鬼の格好で
子どもに投げつける新しい地方の年中行事として。



せっかく買ったのだから、
ぜひ有効に活用していただきたいと思う。
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第16回 「服を脱ぐようにカラオケを」

第16回 服を脱ぐようにカラオケを

カラオケは、あられもない。

少なからず私のことを知っている人なら、私がこのことをあらゆる場所で
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も、
口を漬けすぎたキムチのように酸っぱくして言い続けているのをご存知だろう。

「カラオケは、あられもない」は、
「吉野家のテイクアウトのビニール袋は妙に長い」
「松屋のカレーの味はエッジが利き過ぎている」
と並んで、私が日頃から声高に吹聴してやまない「3つの主張」のうちのひとつであり、
なぜ3つのうち実に2つが牛丼屋チェーンにまつわる話で占められているのかは
この際、不問に付して欲しいのだが、とにかくこの主張は私の中でここ数年揺るがない。

そもそも、「自分の歌いたい曲」を持っている時点でもうはしたないし、
それを自分が原曲キーで歌えるかどうか知っているのも、しゃらくさい
下手なら人前で歌うなとも思うが、逆に上手かったら上手かったで、
そこまでに経たであろう「練習していた時間」というものの存在を感じさせて、
それもまた、いたたまれない

もうすぐ没後7年になることに追悼の意を表して、
あえてナンシー関っぽい言い方をするならば、カラオケは
「自分はこういう歌を歌うキャラである」というプレゼンではなく、
「自分はこういう歌を歌うキャラだと思われたい人間である」という自意識の自己申告だ。
別にそれほどナンシー関っぽくはないし、
没後7年はもちろん何の節目でもないが、
それでもあえて言ってみた。

生きるとは、とりもなおさず自己申告の連続である。
たとえば、スーパーのレジに並ぶ人の買い物カゴには、
ありとあらゆる欲望の自己申告があふれている。

私は菓子パンの好きな人間です。
私はコーラスウォーターばかり飲む人間です。
私は今夜のおかずをコロッケにしようとしている人間です。
私は今、家のトイレットペーパーを切らしている人間です。
私はこれから生理がはじまる人間です(しかも多いです)。
私はかかとをなめらかにしたい人間です。
私はさかむけをケアしたい人間です。
私はシートで熱を冷ましたい人間です。

後半はほとんど小林製薬の商品を買っていただけだが、
ひとたび、そういう目で買い物客を見てみると、
「欲しがり屋さんの欲望ダダ漏れ最前線」といった感じで、
なーんかこっちが顔を赤らめたくなる。

ただのスーパーでさえそうなのだから、薬局!
薬局のレジ係で働いている人なんか、もうどうなっちゃうんだろう。
「うわ、この人、整髪料で毛先を遊ばせたいんだ…」とか、
「この人、かみそり負けを気にしてるんだ…」とか、
「あ、膣カンジダなんだ…」とか考えただけで、
毎日がウハウハなのではないだろうか。
そしてこの話、書けば書くほど俺が変態に見えてくるが大丈夫だろうか。

だから言わんこっちゃないのである。

…って、何が「だから」なのかわからんが、
人はこうして黙って生活しているだけで、
すでに十分すぎるほどの情報量を自己申告してしまう生き物である。
その上、何が楽しくてカラオケまでして、
自分の「自己演出のプラン」まで人にバラさなければいけないのか。

うるさい。
歌のボリュームはともかく、
その自意識がうるさい。

だから私は、やむを得ずカラオケで歌わざるを得ないときは、
「たまたま歌ってみたら上手かった」
「歌えるかどうか試しに歌ってみた」
「ネタとしてみんなにウケる持ち曲」
のいずれかのスタンスしか選ばないようにして、
カラオケが「自意識の演出装置」になることを
極力避けるようにしている。


…とかなんとか言いつつも、
頼まれもしないのにこんなブログを
いそいそ書き続けている時点で、
私だって、過剰に自己申告をしたがる自意識の
「申告したがり屋さん」であることに変わりはなく、
人生という名のカラオケをあられもなく、
高らかに歌い上げている
人間の一人である。

そう、大切なのは、そういう「含羞」の感覚だ。
私ごときが、恥ずかしい人間で、すみません。
みんながそう思っていれば、世の中の
傲慢さの目盛りが1ミリ下がると思う。
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第15回 「僕のお尻は延暦寺」

第15回 僕のお尻は延暦寺


久しぶりのエマージェンシーです。
字の大きさで、「あ、エマージェンシーだな」と判断してください。

とにかく、仕事が思うさまカツカツであって、
そのカツカツっぷりを今、「カーツ大佐」をたとえに使って
表現しようと一瞬だけ思い、すぐに思い直した私であるが、

辛うじて「カーツ大佐と言わない」という瀬戸際の
ジャッジメントだけは正しく働いたものの、
放っておくとすぐにそういう安易な、

相武紗希で「おサキにどうぞ」みたいな(警視庁交通安全週間のポスター)、
吉岡美穂で「かけてみほ?」みたいな(アートネイチャーかなんかのCM)、
多部未華子で「食べてみかこ?」みたいな(そんなCMはない)、

きわめてコンビニ感覚の、温度のひくーい
ダジャレに逃げ込みたくなってしまうほどに、
私は今、キワッキワに追い詰められている。

それはもちろん、今週終えるべき仕事が
まだ全然終わっていないからだし、
徹夜したくせにそのぶん明け方寝てしまって
プラマイゼロで焦っているからで、

こうしてキーパンチしている間も私の表情は
ダチョウ倶楽部の竜ちゃんのように涙目だし、
キーパンチしている手も実際は猫パンチのように頼りなく、
状況はほとほとパニックだ。
ワニワニパニックだ。

……いや、ワニワニパニックじゃないよ。
それくらいの客観性はあるよ。

危機一髪って言葉があるでしょ。
ないもの。
俺と危機との間に、もはや
髪の毛一本ぶんのゆとりすらないもの。
危機剃髪ですよ。

今の俺に比べたら、黒ひげなんて
全然危機一髪じゃないからね。
なんなら代わってほしいよ、黒ひげと。
樽にはまってビクビクしてればいいんでしょ?
やるよ、やりたいよそんな牧歌的なリアクション芸ならむしろ。

こちとらさあ、尻に火がついてるのよ。
尻がボボボーボ・ボーボボなのよ。
俺のお尻に延暦寺あった?くらいの
ちょっとした焼き討ち状態だから、今。
尻に住まう僧兵たちがso hey!つって踊ってますから。
踊り狂ってワニワニパニックになってますから。

だから、ワニワニパニックではないよ。

少なくともパニックではないよ。

ワニワニだよ。


……今、「そっちかよ!」ってツッコんでくれた
人がいたら、俺、100歳まで長生き。



ごめん、今週はこれで勘弁してくれ。
だからといって来週はもっとワニワニパニックに
なっている可能性もあり、予断は許さない。
…ああ、もっとまんべんなく生きてぇよう。
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第14回 「ゴッサムシティ鎌倉」

第14回 ゴッサムシティ鎌倉

行楽シーズンの鎌倉ほど、人をマゾヒスティックな気持ちにさせるものはないと、
今回はいきなりそんな出だしから入りたいと思うわけだが、

というのも、私は生まれも育ちも鎌倉で、
といっても、緑に囲まれ寺社が立ち並び眼前に海が広がる、
そんな万人が想像するような鎌倉の中心部ではなく、

その北部におまけのようにくっついている、
大船というベッドタウンに実家はあるんだけど、

人に説明するとき「実家は大船です」と言っても
「ああ、松竹の撮影所があったところね。寅さんの撮影してたんでしょ?」
などと物分かりのいい認知の仕方をしてくれる邦画シネフィルはまずいないし、

もちろん「昔、鎌倉シネマワールドって微妙なテーマパークがあったよね」などと、
松竹の古傷をほじくり返すようなマニアックなことを知っている者も皆無であって、

ましてや「大船って…あのアメリカザリガニが日本で最初に
持ち込まれた場所?
」などと言ってくれる友達もいないわけであって、
むしろそんなアタック25の解答者みたいな友達がいたら嫌だということもあり、

たいていの人が「ああ…大船ね……」と言って目を泳がせたまま、
途方に暮れて気まずいマジックアワーが訪れるのは面倒だし申し訳ないので、

そういうときは「実家は鎌倉です」といけしゃあしゃあと答えるようにしているものの、
それで「ああ、鎌倉ですか! いいところに住んでますねえ」などと
いいリアクションを返されると、それはそれでうしろめたい…という
大変に屈折した感情を、鎌倉中心部に対して抱くのが「大船住民あるある」なのだが、

そんな大船住民である私も、小中学生時代は鎌倉中心部まで毎日通学しており、
平素から修学旅行生やお年寄りたちが猛威を振るっている現状を知っていたし、
土日ともなれば、それこそ都心からの日帰り観光客で
町がひしめき合って地元住民は身動きが取れず、
子供ながらに「こんなとこ住むとこじゃねえな」と同情していたのだが、

怖いですね、恐ろしいですね、
東京暮らしが長くなると人の心まで変わってしまうんですね、
と、なぜかここだけ稲川淳二の口調だが、

そんな鎌倉の住民感情をすっかり忘れて完全に第三者の行楽客の立場で、
こともあろうにゴールデンウイークに、臆面もなくおめおめと、ぬけぬけと、のうのうと、
鎌倉へのこのこ出かけてしまった私であって、

そうして行ってみてたどり着いた結論は、
「みんな鎌倉に行きすぎじゃないだろうか」という、
お前これだけ句点( 。 )もなしに話を引っ張ってきておいて
それかよ、みたいな素朴なことになってしまうわけですが、

だってさ、だってね、
鎌倉駅から江ノ電に乗るだけで、
ただ乗ろうとしただけで、
「一時間待ち」
って言われたんすよ!
もう信じられないわけですよ、こちとら。

信じられないついでに、句点を打っちゃったんでね。
もうここから先は、これまで句点を節約してきたぶんまで。
むやみに。やたらと。句点を打っていこう。と、そう。思って。ますけれども。
なんなら。一度に2個も。。3個も。。。句点を。。。。打って。。。。。い。。。。。。け。ば。
いいと思って。。。。。。。。。。。。いますけれ。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。ども。

とにかく、江ノ電なんてね、たかが公共交通機関なんですよ。
地元住民も使う、ただの生活の足なんです。
ビッグサンダーマウンテンじゃないんです。
いや、トロッコみたいな車両が、民家スレスレを通っていく
あのジオラマ感は、確かにアトラクションぽいっちゃあ、ぽいが、
乗るだけで一時間待ちは、どう考えても異常だ。

いや、実際、鎌倉を訪れる観光客の大半は、
鎌倉をディズニーランドか何かと混同しているのかも知れない。

都心からさほど離れておらず、とはいえそれなりに電車を乗り継いで行く
そこそこの「おでかけ感」を味わうことができる距離にあって、
「古都」という一定のコンセプトを守ったさほど広くない箱庭的空間の中で、
寺社や仏像、和食や和菓子、海、カフェといったわかりやすい記号に取り囲まれて、
日常とはちょっと違うスピリチュアルやロハスのごっこ遊びが楽しめる。

鎌倉は、ミッキーマウスの代わりに坊さんとサーファーがパレードする、
スローライフ界のディズニーランドなのだ。

本物のディズニーランドと違うのは、スタッフと客との境界線がズルズルなこと。
おそらく、若い観光客で鎌倉に憧れを抱くのは、緑に囲まれた一軒家で、
採算とかをあんまり考えずにこだわりのコーヒーやらベーカリーを出す
カフェを営んで地元のマダムに愛されたいみたいな、そういう人たちだ。

そして、実際にそういう人たちが脱サラして鎌倉に家を買ってカフェを始めている、
鎌倉には最近、そんな店が本当に多い。

インディーズバンドとそのファンのような、
ハロプロのアイドルに熱狂していたかつての小学生女子のような、
「私にも手が届くかも知れない」等身大の幸せの形が、そこにはある。

京都が商業誌のジャンプなら、鎌倉はコミケの同人誌。
そして、同人誌で固定ファンにだけ愛されていればいいという
生き方を選択する人が、今は多いのだと思う。

思いがけずシリアスな話になってしまったが、
鎌倉が思いのほかいつまでも飽きられずに、
観光地としてのリノベーションに成功しているのは、
そういう人々の欲望抜きには考えられないなあと思ったのだった。

で、そういう人が消えていなくなれば、
鎌倉ももう少しのんびりした観光地になるんだろうけど。
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