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デリカシーの機微が問われる現代社会のさまざまな局面に、ぼんやりと警鐘を鳴らす無神経なコラム。

アーカイブ: 2009/07

第22回 「噛まぬなら落としてしまおうホトトギス」

第22回 「噛まぬなら落としてしまおうホトトギス」

どうも、2週間ぶりです。

ご存知の通りこのコラムは、世にはびこるデリカシーという名の
偽善と欺瞞について考える、熱血硬派な社会派コラムなのであって。

当然、その執筆者である私は、デリカシーの粋を知り尽くし、
デリケートな所のかゆみを自分で治せる、デリカシーの猛者です。
人は私のことを陰でフェミニーナ軟膏と呼んで慕っています。

しかし、やんぬるかな、そんな私も「締め切り」に対する
デリカシーだけは、すこぶる甘い。
それはもう、中学生男子の将来設計のように甘い。
その甘さたるや、「マックスコーヒーだと思って飲んだら、
福田の締め切りだった
」と勘違いされるほどである。

そして、喩えに凝るあまり、今、多くの読者を理解の対岸へ
置いてきぼりにしている気がするのですが、みなさん大丈夫でしょうか。
つまらなくてもこれが俺の持ち味なので、がんばって付いてきてください

ともかく、いくらこの連載のタイトルが
『気まぐれフクスケのぼちぼち更新コラム』だからといって、
さすがに2週連続で更新を落とすと、
『大塚ニューコーポ』での私の立場がなくなる。
ていうか、もうほとんどない。

つい先日も、8月更新予定の単発企画の制作をしていたのだが、
さまざまなシチュエーションの下、外で写真を撮るというこの企画で、
私は被写体として脱いだり裸になったり裸の上に食べ物を乗せられたり
なんだかやたらと体を張らされるモルモット的な立場だった。

なんだか最近こういう役回りが多いな…とは思っていたが、
よく考えたらこれは要するに、「言葉で笑いをとれない能無しは、
体を張って笑いをとるしかないぞ
」という戦力外通告だったのか。

やばいなあ。
じわじわと崖っぷちに追い詰められてきている気がするのよ。
周囲の顔が片平なぎさに見える瞬間だ。

差別的なことを言うつもりはないけど、現実問題として、
頭を使って笑いを取る人間は、体を張って笑いを取る人間を見くびっていると思うわけ。
つまり、知らず知らずのうちに体を張らされているということは、
マイルドにフェードをかけながら引導を渡されているのと同じことだ。
それだけは、ええいああ、なんとしても避けたい。

おもしろきゃいいとは思っているが、対等じゃないのは嫌だ。
少なくとも、裸になったり痛がったりして笑わせるのは、俺のガラじゃない。
だから今はまだ、がんばって頭と言葉を使ってコラムを書こうと思う。

とはいえ、私が締め切りや計画さえきっちり守る人間だったら、
事態はもう少しどうにかなっていると思うのだ。
なぜ、なーぜこんなにも締め切りを守れないのかなこの俺様は!
という問題は、下山事件以上に戦後史最大のミステリーなのである。

昔はそれでも、なんとかなってたのよ。
さながら窮鼠が猫を噛むように、火事場の天才的能力が発揮できる
ギリギリの「追いつめられ」のデッドラインを心得ていたもの。
それが、いつしか追いつめられすぎて、猫にのどぶえを
噛み切られてジ・エンド
になることが増えてきた。

そうなのだ。
チョロQが、一度うしろに引かなければ走れないように、
私は生まれてこの方、追いつめられることなく、
自分から猫を噛みにいったことなんてないのかもしれない。
だとしたら、ちょうどいい追いつめられ方のタイミングを
見きわめられなくなってきた勘の鈍りは、私にとって死活問題だ。

「締め切りを守って、なおかつおもしろいものを書く」ことが両立できない人間は、
「締め切りを優先させて、そこそこのものを書く」か、
「締め切りは破るけど、超おもしろいものを書く」か、
どちらかしか、生きる道がない。
そして後者の道は、売れるか偉くなるかしないと認められないのです。
人は誰もがリリー・フランキーにはなれないのですからしてー!

窮鼠にしかなれないのならば、計画的に窮鼠になるしかない。
だったら私は、「窮鼠になるテク」を磨きたい。
窮鼠初段になりたい。

誰か、『猫に噛みつく窮鼠力』というタイトルで
ビジネス書でも出してくれないでしょうか。
もしくは、『片平なぎさは、なぜ崖に犯人を追いつめるのか』という新書でもいいですから。

そんなわけで今とにかく私は、
遅れたコンテンツの更新を取り戻すために、
次の更新がさらにまた滞っていくという悪循環の回し車を、
カラカラカラカラ走っているハムスター
である。

ああ、今なら連載時の作画の乱れを単行本収録時に直すために、
本誌の連載を休んでいた富樫義博先生の気持ちがわかる。
カラカラわかる。

モルモットになったりネズミになったりハムスターになったり、
どうにもげっ歯目なキャラから抜け出せない私なのだった。
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第21回 「デブは心の病気です」

第21回 「デブは心の病気です」

この先の人生、たとえどんな事故や難病に見舞われようとも、
これだけは絶対に自分とは無縁だろうと思っているものがある。

デブだ。

まさか自分がデブにはならないだろうという強い確信があるのである。
これは何も自分の自己管理を過信しているのではなく、
それ以前に、管理しなくても太らないし、太れない体質なのだ。

生まれてこの方、脂肪がつかない代わりに筋肉もない
やせぎすの体型で、そのフォルムは限りなくエヴァンゲリオンに近いし、
胸板もベニヤのように薄く、“平成の歩く細うで繁盛記”と呼ばれている。

空から女の子が降ってきても、腕力がないので受け止めきれず、
薄い胸板をすり抜けてしまい、落として死なせてしまうだろう。
もちろん、ラピュタは一生見つからない

そんな私だから、世間のほとんどの人が強迫観念のように
抱いている「デブフォビア(デブ恐怖)」を感じたことがない。
そもそも、自分がデブになるというビジョンが思い描けないのだ。
“日本経済再生のシナリオ”のほうがまだ思い描けるくらいに、
どうすればデブになるかがわからない。

①夜遅くに②高カロリーなものを③大量に食べるという
「デブ三原則」を遵守した生活を送っているし、運動もまったくしない。
それどころか、食品のカロリー表示というものを気にしたことが、まずない。
見向きもしない。
にもかかわらず、私が常にエヴァンゲリオン体型をキープしているのは、
身も蓋もない言い方をしてしまえば、「体質だ」ということになる。
逆に、普通に食べているだけなのに太りやすい体質の人も当然いるわけだ。

で、ここで問題発生よ。
アメリカでは、太っていることを理由に自己管理能力が低いなどとレッテルを貼られ、
人事査定でマイナス評価が下されたり、リストラの対象になることもあるという。
だとすれば、私のように体型にこそ表れないが、考え方にデブフラグが立ちまくっている「心のデブ」も、同様に「問題アリ」とジャッジを下されるべきである。

ところが、断罪されるのはいつだって目に見える「フィジカルデブ」ばかり。
そんな彼らの脂肪の影に隠れて、心を肥え太らせている「メンタルデブ」が断罪されないのは、ちとアンフェアではないだろうか。

そう、デブも心の時代なのである。

そのことを象徴するかのように、
私の友人には、さして太っているわけではないのに
完全に「デブキャラ」扱いされてしまう人物がいる。
何を隠そう、大塚ニューコーポのますらおでぶ、その人である。

彼は、がっしりした体格ではあるが、
取り立てて騒ぐほど太っているわけではないし、
最近は実際にダイエットにも成功して、
数字的にはもはやまったくもってデブではない。

しかし、たとえば
「すべての食べ物の中でコーラが一番好き」
「気になるラーメン店に行くためだけに外出することを厭わない」
「激しい運動をすると、疲れるよりも先に物が食べたくなる」
「食後に水が飲みたくなるように、口が自然と菓子パンを欲する
などといった逸話の数々が、彼の過去をつつくと
肉汁のようにあふれ出すにつけても、

またあるいは、学生時代に金がなくなり、
食べ物が底を尽きて困窮するあまり、
「ティッシュにぽん酢をつけて食べた」という
伝説的エピソードを聞くにつけても、

人をデブキャラたらしめているのは、
体型ではなくその考え方にある、としみじみ思うのである。

そんな私も、人のことは言えない。
生活習慣や心がけは、間違いなくメンタルデブそのもの。
こうなったらいっそのこと、
体重55キロでありながら「デブ」と呼ばれることを目指して、
「デブは脂肪ではない、思想だ」を合言葉に日々を生きようと思う。

最近、ちょっと脇腹がついてきたような気がするのは、もちろん気のせいである。
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