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デリカシーの機微が問われる現代社会のさまざまな局面に、ぼんやりと警鐘を鳴らす無神経なコラム。

アーカイブ: 2009/06

第20回 「残り物には汁がある」

第20回 残り物には汁がある

料理の残り汁にご飯を入れて食べるのが好きだ。

特に、カップラーメンや、ポトフなどの煮込み料理で、
メインとなる麺や具を食べ終わったあとのスープに目がない。

B級グルメにも満たないG(ゲス)級グルメであることは自覚しているが、
その反面、「一人で食事するときはみんなやってるんでしょ?」と
半ば当然のように思っていたので、私のこの食習慣に対して
「意地きたない」「貧乏くさい」と、
道端に吐き捨てられたタンを見るような目で
非難されたときには、正直、面食らった。

え、だって、汁物の料理って、その残り汁にこそ旨みが凝縮されているわけで、
具材を食べきったことは単なる通過儀礼にすぎないというか、
私にとっては「むしろここからがメインイベントだ」くらいの気持ちなのである。
汁こそが本番。
決して、AV男優の下克上の話ではない。


とにかく、私の「残汁道(ざんじるどう)」は筋金入りだ。

「なか卯」でカレーうどんを頼むときには、わざわざ単品でライスも頼み、
うどんを食べ終わった後の残り汁にライスを入れて二度楽しむ。

鶏のから揚げに甘辛い南蛮ソースがかかっていれば、
から揚げはなるべくソースを落として食べ、
余ったソースを寄せ集めてご飯を浸して食べる。

居酒屋で食べ終わった牛すじ煮込みの皿を下げられそうになると、
「まだこの汁が残ってるでしょうがあ!」(田中邦衛のマネで)と
本気で引き止めたくなり、名残惜しさを2分くらい引きずる。

家にいてカップラーメンくらいしか食べるものがないとき、
「ご飯が炊けていない」ことを理由に(残り汁にご飯が入れられない)
カップラーメンを食べること自体をやめたりする。

ことほどさように、「残り汁にご飯を浸す」は、
私にとって「ズボンに足を通す」と同じくらい自然なことなのに、
やんぬるかな、「残汁道」に世間の風は冷たい。

そもそも、「残り汁」という呼び名からして
「残ってるわけじゃねえよ」という憤りを感じてやまないのだ俺は。
「残ったのではない、残したのだ」という、
かの有名なダンテの言葉をあなた方は知らないのか。

ま、そんな言葉はないので知らなくても仕方ないわけだが、
とにかく、ラーメンに替え玉を入れることが、
鍋の最後を“おじや”で締めることが、
何の抵抗もなく当たり前のように受け入れられているのに、
なぜカップラーメンや他の料理の残り汁にご飯を入れることだけが、
こんなにも嫌悪の目で見られなければいけないのか、私には理解できない。

それにしても、なぜ私はときにわざと汁を余らせてまで、
残り汁でご飯を食べることに執着するのだろうか。
たぶん、私の中の基本思想として、
「美味いものは白飯で食いたい」という意識があるのだと思う。

たとえば、焼肉に行くと「ライスを頼んでしまうと、そのぶん肉が
食えなくなってもったいない」みたいな考え方をする人がいるが、
私の場合、たとえ肉効率(米や小麦で満腹にしてしまうのではなく、なるべく
コストパフォーマンスが高い肉で腹を満たそうという配分の割合)は下がっても、
「こんなにご飯と相性のいい肉があるのに、一緒に飯を
食べないことのほうがもったいない」と考え、ライスを頼んでしまう。

そう。
まだそれでご飯が食えるだけの味があるものを、
残したり捨てたりしてしまうのは、もったいない気がするのである。

もっと突き詰めて考えると、私は「おかずとご飯の関係」というものを、心のどこかで
「濃い味の料理は、味をご飯でうすく引き伸ばすことで長持ちさせて食べている」
と考えているようなふしがあり、だから濃い味の料理をご飯なしでそのまま食べるのは、
「味を余らせてしまって、もったいない」ということなのだと思う。

だとすると、実体のない「味」というものに対する
私のせこさ、もったいなさがり加減には常軌を逸したものがあり、
「意地きたない」「貧乏くさい」という周囲の非難も
あながち的外れではないのであった。

でも、美味しいよ、残り汁。

※近日中に、この「残り汁がうまい」という主張だけで、ONCのコンテンツを作るつもりなので、そちらのほうも動向を刮目していただきたい。
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第19回 「一発校了チキンレース」

第19回 一発校了チキンレース

ここ数週間、私がこの連載を落とすほどにしんどい思いをして
泣きながら編集していたムックの制作が、ここにきてようやく、
おかげさまで無事に一発校了で終わりを迎えようとしている。

編集者にとって「一発校了」とは、
その語感からもうすうす想像がつくように、
ダルビッシュにとっての「一発着床」と同じくらい
ジ・エンドな
恐ろしい言葉であって、

意味を知らない非・出版業界の方にあえて説明するならば、
「初めて作った料理を一度も味見をしないで王様に出す」
「ブレーキが利くか確認しないままチキンレースに参加する」
「絶対にチェンジができない出張ヘルス」
みたいなことだと思ってほしい。
厳密にいうと全く違うが、少なくとも気分的には、そんな感じだ。

要するにものすごくアクロバティック。
しかし、そのアクロバティックさ加減は、
シルク・ドゥ・ソレイユというよりは
電撃ネットワークにきわめて近いものであって、
大事なのは技術よりも、口の中で爆竹を鳴らす勇気。
そう、その「勇気」こそが一発校了に必要なものだ。

そんな、帰りのガソリンを積まない神風特攻隊のような志で、
私が一体どんな高尚な学術書を作っていたのかといえば、
インターネットの炎上や祭りといった現象の事例を集め、
その悲惨さ可哀想さあられもなさを、人の不幸を覗き見したい
野次馬精神でもって楽しもうという身も蓋もない企画であって、
当然、デリカシーもへったくれもない下衆な本である
(もちろんこれは貶しているのでなく、「下衆に徹しているから素晴らしいのだ」というフェーズが賛辞として通用する世界観や価値観があるってことくらい、懸命な読者はわかってくれるだろうと思う。実際、すごくおもしろいし、これまで自分が編集を手がけた本の中でもお気に入りの一冊だ。買え!)。

とにかく、書店で「デリカシー」と「ノンデリカシー」のコーナーがあったら、
確実に「ノンデリカシー」のコーナーの書棚に置かれるような
(めんどくさいからツッコミ不要)この本の編集作業を通して、
私が心底みなさんに残したいと思ったメッセージはたったひとつ。

みんな、ハメ撮りだけはダメ!ゼッタイ!!

あれだけ苦労したのに死ぬほどうすっぺらいメッセージしか残せなかったが、
これはでも本当に、マジで守ってほしい。

誌面では、ファイル共有ソフトがウイルスに感染していたため、
彼女や浮気相手とのファックシーンを撮影した画像や動画が
丸ごと流出してしまったカップルを紹介しているのだが、

心あるネットユーザーのたゆまぬ努力の甲斐あって、
その男女の実名や住所、勤務地が探り当てられたり、
職場に電話をかけられたり、果ては実家に押しかけて
写真まで撮られたりしておるのですよ。

恨みつらみのまったくない、あまつさえ面識すらない
一般人の素人カップルに対して、
「なに? あんたらゾルゲ?」
というほどの諜報能力を結集して素性を晒してやろうという、
ネットユーザーのその由来不明の執着心に、
身の毛がよだつを通り越して、
“身そのもの”がよだつのである。

で、そのトロピカルなマンゴーを流出させちゃった
女っていうのがまた、そこそこかわいいんだ。

…ね。

いや、なにが「ね」なのかと思うだろうが、
結局そういうことなんですよ。

つまり、「俺らよりステータスが上でリアルが充実した人間が、
かわいい彼女とこんなことしてる……ざまあみやがれ
という露骨なルサンチマンを、なんの臆面もなく
暴発させていいってことになってるのが、
炎上や祭りに群がるネット連中の下衆なところだと思うわけ。

不謹慎な発言したとか、非道徳的なこと書いたとか、反社会的なことしたとか、
確かにブログでうかつに書くほうも書くほうだとは思うし、
日記を読まれたりメールを読まれたり手紙を読まれたりするにつけても、
人は言わなくていいことをわざわざ言葉にしてしまいがちな存在であって、
人の不幸とは、「文字にしてしまう不幸」のことである、とすら思っている私だ。
文字さえ書かなければ、人類に訪れる不幸のレパートリーはかなり少なかったはずだ。

だけどね、だけどさ。

とにもかくにも、なにがなんでも、
「なんかうまいことやってるヤツがいるから足を引っ張ってやれ」
というのが、ホリエモン以降、日本人の気分を動かしている
原動力になっているような気がして仕方がない私であって、
そのはしたなさ節度のなさデリカシーのなさは、ちょっと異常だよ。

人間にホンネとタテマエがあること自体はまったく悪いことではないが、
日本人はその落差がちょっとえげつなさすぎると思う。
タテマエの壁が高すぎるし、ホンネの底が深すぎる。
身元を明かして、面と向かって言えないようなことは書くべきでないと私は思うが、
逆に言えば、身元を明かして、面と向かってさえいれば、ほとんど何でも言っていいとも思っている。

陰でコソコソするのが一番よくない。

…って、なんか、さんざん書いておきながら
ものすごく凡庸な結論になってしまったけれど、
実はそれが一番難しいのではないかとも思うのだった。
でも、一度流出しちゃうと取り返しがつかないので、
ハメ撮りだけはホント、やめたほうがいいです。
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第18回 「窮鼠、猫を噛むとは限らない」

第18回 窮鼠、猫を噛むとは限らない


またか。



と思わんでほしいのです。
先立つ不幸
先立つ不幸を許してほしいのです。

私はね、なにもお年寄りの目に優しいコラムが書きたくて、
こんなでかいフォントでお届けしているわけではないのです。
やりたいことしたい
やりたくてやっているわけではないのです。

わずか3週間のときを経て、
またしてもエマージェンシーレイアウトが
お目見えするとは、私だって不本意なのです。

でも、すまん、お手上げだ。
お手上げ

先週辺りからほとんど家に帰っていない。
週末の『SEVEN HOUSE』の撮影も、
出番と出番の間に仕事をしていた。
出番の合間
もう何が補欠なんだかさっぱりわからない状況である。

正直、胃が痛い。
痛い車
痛車よりも痛い。
いつもの私が
アゲアゲ
こんな感じだとしたら、
今の私は確実に
サゲサゲ
こんな感じだ。
むしろ、
最低のケーキ
こんな感じだと言ってもいい。
いや、いっそ
消し炭
こんな感じかもしれない。

こんなエマージェンシーな状況は、
年に何回も来るもんじゃない。
今のこの私の気持ちを、持ち得る文才をフルに使い、
筆舌を尽くして文学的に表現するとしたら、
「マジ勘弁」
である。これが今の私の限界なのである。

だから、今回ばかりはちょっと見逃してくれんだろうか。
「くせ者か!?」と言われたら、「チュー」と鳴き返しますんで、
そしたら「なんだ、ネズミか…」つってスルーしてもらえないでしょうか。

今の私は、袋小路に追い詰められて、
チューチュー断末魔をあげるハダカデバネズミです。
「窮鼠、猫を噛む」で言うところの、窮鼠です。

いつか華麗に猫を噛む日を夢見てはいますが、
噛み合わせが悪かったり、
うっかり自分の舌を噛んでしまっても、
それはそれで手打ちにしてください。

問題は、来週になったら復活しているかというと、
そんな気がちっともしないことだ。

それまで、私のことを忘れないでください。
これからしばらく、夜空に流れるほうき星を見つけたら、
それが俺だと思ってください。

たぶん、生きて帰ってきますから!


今の俺
6月4日10時50分、会社にて途方にくれる俺。


なぜ、追いつめられたネズミはネコに噛みつくのか?

なぜ、追いつめられたネズミはネコに噛みつくのか?

フォレスト出版
もう、うわあああってなるからです。

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