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デリカシーの機微が問われる現代社会のさまざまな局面に、ぼんやりと警鐘を鳴らす無神経なコラム。

アーカイブ: 2009/04

第13回 「酔ってパンツの緒を締めよ」

第13回 酔ってパンツの緒を締めよ

酔って粗相をしたことがない、なんて
清廉潔白なことは口が裂けても言えない身分であって、

浴びるほど酒を飲んだ日は、
ときにセクハラに及んで女性を押し倒したり、
部屋の壁に携帯電話を投げつけて穴を空けたり、
自暴自棄になってコンビニの袋を振り回したら
見知らぬマンションの茂みにちぎれたカレーパンが
吹っ飛んでいって行方不明に
なったり、
いろいろあった。

セックス&バイオレンス。あと、なんか…エスニック(カレーパンだから)。

よくわからんが、そういう私の日頃のキャラクターからは
似つかわしくないオスな一面が、酔ったときだけ
ムクムクと頭をもたげて立ち現われてくるのであって、

それが私の押さえつけていた本性なのか?と問われたら、
「本性なのだ」と答えるしかないのかもしれず、
だからって人間はそうやすやすと本性を見せてよろしい
ということには、なっていないのが現状だ。

そう、厄介なのは「本性」である。

小さい頃から、「人様には素直に、正直に生きなさい」と教育されている割に、
我々は「本性」を見せると怒られてしまう理不尽な存在なのである。

いや、そりゃあ私も大人ですよ。
そうそうめったやたらと「本性」を
ズルムケにして生きていいとは思ってないよ。
思っていても言わない、考えていてもやらないのが
分別ある大人のデリカシーであると、歯をくいしばって理解はしている。

だとしたら、なぜに世間はこんなにも酒に対して寛容で野放しなのか。
あまつさえ、飲めない奴はつまんねえみたいな空気をバンバン出してくるのか。
そこら辺、納得のいく説明が欲しい私がいるわけですよ。

酒といったらあなた、本性のリミッターを解除する格好のトリガーじゃないですか。
心の鍵を開けるピッキング犯みたいなもんじゃないですか。
心のスキマをお埋めするドーーーン!みたいなもんじゃないですか。

そりゃもう、精神に与える影響、常習性、依存性は明らかであって、
「アル中」なんて、一見「お前、どこ中?」みたいなフランクな響きを装っておきながら、
実際は中学生のようなかわいげなど微塵もなく、そのタチの悪さは大麻以上だとも聞く。

世間は、そんな悪魔の妙薬を「大人の嗜みだろ」みたいにグイグイ勧めておきながら、
いざ酒で粗相をしでかすと「大人としてなってない」と、
人を崖っぷちに追い詰める片平なぎさのような仕打ちをしてくる。

なんなの?
「世間」って「鬼」の別名?
自分からホテルに誘っておきながら、バレたら「ムリヤリ押し倒されたの」っていう女?

もちろん「節度ある酒量を自己管理するのが大人でしょ」という言い分なのはわかるが、
酒という強力な依存性薬物を相手にして、
それはデリカシーの要求水準が高すぎるのではないだろうか。
それってなんか、「落とすための面接」みたいな、
ムチを打ちたいがためにアメを与えてる感じがしません?

少なくとも、酔った上での粗相は、
「やらかしてしまったこと」を罪に問うのではなく、
「自分が本性を露呈してしまう酒量のラインを
管理できなかった管理責任」だけを問うべきだと思う。

それに、この世から本気でアルコールの害毒をなくしたいのなら、
「お酒、カッコ悪い。」とか、「ダメ、セッタイ。」とか、
「泥酔は、犯罪です。」とか呼びかければいいんだよ。
なぜ、酒を大麻並みに厳しく規制しないのか。

それができないのなら、大麻を酒並みに合法にすればいいのだ。
…いや、ごめん。それは違う。言い過ぎた。
よ、要するに、咽喉に詰まらせる危険性は同じなのに、
なぜ餅は許され、こんにゃくゼリーは製造中止になるのかという話だ。

餅とこんにゃくゼリーとを遠く隔てる、
「事情」という名の深くて暗いイムジン河。
その「事情」に、言い知れぬ欺瞞を感じてしまう私は、
「王様は裸だ」と臆面なく口にしてしまう子供なのでしょうか。
「裸だったら何が悪い」と夜空に叫んだチョナンカンなのでしょうか。

――答えはすべて、草なぎ君の脱いだウエストポーチの中に入っている。

そんな夢のある話だったら、いいのにな。
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第12回 「結婚とその他の風習」

第12回 結婚とその他の風習

先日、大学時代からの友人の結婚式に出席してきたのね。

彼女と交際相手との波乱万丈な紆余曲折については、
それだけでケータイ小説が1冊書けるほどに、
そして危機管理術のビジネス書が書けるほどに、
もしくは『龍が如く』を1日で攻略できるほどに、
スリリングでアクロバティックなエピソードが満載なのだが、
前途ある2人の門出のためにここでは割愛しておくことにする。

ともかく、あんな話もこんな話も知っている私にとっては、
無事に結婚までこぎつけた2人の姿は感無量であって、
そして、そんな温情点を差し引いても、掛け値なしにいい結婚式だった。

いい結婚式の条件とは何か。
それは、「自分たちが浮かれていることを自覚した上で、
わざと浮かれてみせるという客観性があるかどうか」ではないだろうか。

誓いのキス、ケーキ入刀、ファーストバイト、お色直し、2人の馴れ初めVTR、キャンドルサービス…。

結婚式には、幸せに浮かれた2人を手放しで肯定するような
ベタなイベントがふんだんにちりばめられているが、
これらは、来てくれた招待客をおもてなしするための「エンターテインメント」であって、
「幸せな2人」をパフォーマンスとして演出しているのだという自覚の下に行なわれるべきだと思う。

つまり、猿回しの猿が死んだフリをしたり、
ジャングルクルーズで滝に巻き込まれそうになったり、
上島竜兵が「押すなよ!押すなよ!」つって熱湯風呂に落とされるのと
基本的には一緒であって、このときの「ベタ」は、
わかりやすくするための手法としての「ベタ」じゃないすか。

それなのに、世の夫婦の多くはその「ベタ」を「ガチ」だと思い込み、
本気で浮かれてロマンチック空間に没入してしまいがちで、
残念なことに、そういう結婚式は実に多い。

私たちは、熱湯風呂に落とされるのが「おいしい」とわかってるくせに、
それでも「押すなよ!」つってる竜ちゃんがおもしろいのであって、
熱湯風呂に入るのを本気で嫌がっている竜ちゃんなんて、見ていてつらいだけなのである。

自分のしていることに疑いを持たず、
客観性や批判性を失い、手放しで肯定される場所。
そこには得てして、「恥」や「間抜け」が忍び込む。

先日の結婚式を私が「いい結婚式」だと思ったのは、
結婚誓約もファーストバイトもお色直しもキャンドルサービスも、
友人がやるとなぜか「そういうプレイをしている」ようにしか見えず、
「こういうことを本気でしている私って、おもしろいでしょ?」
と彼女が言っているように見えたからだ。

わかっていて、あえてそういう風に振る舞ってみせるということ。

結婚に限らず、今、すべての表現活動には
そういう自覚と客観性がなければお話にならないと思う。

スターとしてトウが立ち、芸能界から干されかけていたとき、
にしきのあきらは、あえて「スターにしきの」と名乗り、
セルフパロディを受け入れることでバラエティ番組から引っ張りだこになったが、
スターとして手放しで肯定されることに固執した
田原俊彦は、テレビからフェードアウトした。

にしきのは生き、田原俊彦は死ぬ。
現代は、そういう時代である。

そういう意味では、無理だとわかっていてあえて
「生涯添い遂げる」「浮気はしない」といった契約を結ぶ
結婚というシステム自体が、私にはすごくファンタジックな
コスチュームプレイをしているように見えて仕方がないんだけど。

なぜか結婚に関してだけは、みんな
自分は「田原俊彦」でいられる
と思ってるんだよなあ。

「わかっていて、あえてそういう風に振る舞ってみせるということ」
だと割り切って、それでもそのプレイを楽しめる人がいたら、
私はそういう人と結婚しようと思う。
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第11回 「ブスが街から消えるとき」

第11回 ブスが街から消えるとき

このところ女々しい話題が続いたので、
久々にオスっぽいことを書いてもいいだろうか。

最近、街からブスが消えたような気がする。

それでも昔は、道行けばここにも、ああここにも…と、
金曜の夜に駅のホームでオガクズが撒かれているのと
同じくらい必然的な確率で、街にはブスがいた。

休み時間に光化学スモッグ注意報が出されて
外で遊べなくなり、「あーあ…」とがっかりするのと
同じくらい的確な頻度で、街にはブスがいた。

それが今ではどうだろう。

みんながみんな、そこそこそれなりに
ほどほどの「美人度」をキープしていて、

思わずぎょっとするような、
思わず「ぎょっ」と口に出してのけぞって
うっかり頚椎を痛めるようなブスは、
とんとお目にかけないといっても過言ではない。

とはいえ、人類学的に考えても、
そう簡単に美人の頭数が増えるとは思えない。
だとすれば答えはひとつ。
美人が増えたのではなく、国民の
メイク技術の水準が格段に上がったのだ。

廉価でも充実したコスメグッズが誰にでも手に入り、
氾濫する女性誌のおかげで、
全国どこにいても美の統一規格を教育され、
「顔の正答例」を答え合わせできるようになった今、
あえて「間違う」ことのほうが難しくなっているのである。

つまり、こと「顔」において女性は、
よくしつけられた幕府の犬なのである。

もうひとつ、「顔」とは別に「プロポーション」の問題もある。

去年の夏、私がつとに感じたのは
「生足を大胆に露出する女性の増加」だった。

しかも、その出す生足出す生足がみな、
ししゃものようにほっそりとしたモデル並みの脚ばかりであって、
モビルアーマー然としたごんぶとな脚は、ついぞお見かけしなかった。

とはいえ、いくら食生活が欧米化したからといって、
小学生に「好きな食べ物は?」と聞けば、いまだに
寿司が1位とか2位に食い込んでくる現状にあって、

森理世さんをミス・ユニバースとして受け入れることに
一瞬、青汁を飲むときのような覚悟がいるほどに、
我々は身も心もズブのアジア人だ。

そんなアジアアジアした日本女性が、
突如として全員スタイルがよくなるわけがない。

つまり、「出してもいい人」しか生足を出していないのである。

「出していい」足の持ち主は、自分の足が
「出していい」ことをちゃんとわかって出しており、
そうじゃない人は、自分が「出していい」足でないことを
自覚して、ちゃんとしまっているということになる。

「見られる」そして「見せる」ということに
どんだけ成熟してしまったんでしょうか、現代の日本人女性は。
という話だ。

もちろん、街に美人があふれ、
きれいな足だけが目に触れる光景は、
男にとっては願ってもないいらっしゃいませ
そしていただきますという状況だ。

しかし、「生足を出す/出さない」という、
本来個人の自由であるはずの選択に、
見えないデリカシーのルールブックが存在し、
それを無言のうちに誰もが遵守している
社会というのは、いささかうす気味悪くないだろうか。

自分が「空気読めてない」ことに
怯えて足を出さないというのは、
割と飲み込みやすい従来の日本人って感じがするが、

自分が「空気読めてる」ことを
きっちり自覚して足を出し、
しかもそれがちゃんと世間の空気と
「一致してる」ってことがすごい。
ていうか恐ろしい。

末恐ろしい。

むしろ息苦しい。

すご末息苦恐ろしい。


そう。みんなが空気を読めすぎている社会というのは、息苦しいのである。

自分が「モビルアーマー」であることに無自覚なまま、
自然薯のような足をスカートから見え隠れさせている
ブスが堂々と街を闊歩していた頃もまた、
おおらかで情緒ある時代だったとはいえないだろうか。

手羽先のようにいびつな、
「世界の山ちゃん」みたいな足を
ズボズボ出してる人を見て、
「あ~あ…」とか思いながら町を歩くことにも、
それはそれで趣があったよな…
という郷愁にあなたは駆られないだろうか。

あなたは駆られなくても
高橋は駆られるかもしれない。
室田や富樫ならなおさらだ。

陰と陽、ネガとポジ、月とすっぽん、太陽とシスコムーン、
世界は、相反するアンビバレントな要素が渦巻く
カオスを許してこそ、バランスがとれるというものだ。

要するに、過剰にポジティブなものだけを肯定し、
ノイズを排除してしまう傾向は不健康だし、危険だと言いたいのです。

それはそれとして、北野誠の謹慎理由が
明らかにされることを切に願います。

では、今週はこれにてドロンします。
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第10回 「やらかしません夏までは」

第10回 やらかしません夏までは

先日乗ったタクシーの運転手がやけに陽気な人で、
「小石川の桜並木も、今が見頃のピークですねぇ」などと
花見に関する他愛もない世間話を交わしていたのだが、

「昨日もベロベロになっちゃったお客さん乗せて大変でしたよ。
いやあ、不景気なんですから、浮かれちゃいけませんなあ

なんて言っていた彼が、降り際の私に
三千円のお釣りを手渡すとき、さも嬉しそうに

「はい、三万円ね」

と、今どき下町の商店街の八百屋でも言わない
シーラカンスのような生きた化石ギャグをぶっぱなしたので、
あの、なんていうか、ものすごくイラッとした

私も大人なので、「お前が一番浮かれてるよ」という
ツッコミをぐっと飲み込み、振り上げた拳をパーにして
おとなしく三千円を受け取ったが、

そんなわけで、春はうっとうしい。

人がやらかし、そして、しでかす季節。
よせばいいのに、しなくていいことをする季節。
それが、春だ。

さくら

うららかな陽射しは、人をおおらかな気分にさせ、
満開の桜は、人の気分をみだりに浮かれさせ、
さらに「外で酒を飲む」という締まりのない行為が、
普段ははずさないハメやタガを、ずるずるに緩ませていく。

一年中生殖できる代わりに、
決まった発情期というものを失った人間が、
やり場のないリビドーを発散するために、
いわば「つじつま合わせ」として考案したシステム、
それが花見ではないかとすら思う。

それでも発散しきれずにこじれたモヤモヤが、
夢精のように外に漏れ出てしまう例は、枚挙にいとまがない。

電車でたまたま隣りに座った人が、
ブツブツと異界の言葉をつぶやいている
パーセンテージが最も高いのも、春である。

そういえば先日、「丼・定食50円引きキャンペーン」のおかげで、
深夜にもかかわらず近所の吉野家が猛烈に混雑しており、
初老のバイト店員がキャパシティを超えてテンパっていたのだが、

それを見ていた調理場の若いバイトがしびれを切らして
「もうこっちはいいですから向こう行ってあげてください」
と初老男の肩を押しのけたところ、彼はみるみる機嫌を悪くして、
あからさまにヤケクソな態度で接客を始めたのでびっくりした。

挙句に、下げた食器をわざとガシャンと音を立てて置くので、
若いバイトからそれをたしなめられると、
「わかったからさあ、君もグイッって押したりすんの、やめてよ」
などと詰め寄り、ちょっとした一触即発の空気になってしまったのである。

そんなどさくさの中で供された牛丼がうまいわけもなく、
心なしか俺のだけ具の「盛り」が少ないような気もして、
あの、なんていうか、ものすごくイラッとした

これも、おっさんの失われた発情期が路頭に迷い、
男子中学生のニキビのように怒りとして噴き出した結果だろう。
いわば私は、おっさんの夢精に付き合わされたようなもんだ。
そう書いたら、途端に気持ち悪くなってきた。

春先に起こるこうしたトラブルが面倒くさいのは、
「発情」がそもそもポジティブなエネルギーだからだと思う。

つらいしんどい辞めたい死にたい、
そういうネガティブなモチベーションがやらかすことよりも、

ハッピー嬉しい楽しい大好き!みたいな、
そういうポジティブな心意気がこじれてやらかしたことのほうが、
事の「やらかし度」はより濃密でうっとうしいのではないか。

それはたとえば、喪中ハガキよりも、
子供の写真入りのアットホームな年賀状のほうが、
ときに人を傷付け、イラッとさせるのに似ている。
いや、似てないか。


結婚という「いいこと」を報告した水嶋ヒロの会見は、まるで自分が
ドラマの主人公であるかのように妙に芝居がかっていてイラッとしたし、
WBC優勝という「いいこと」があったイチローは、明らかに「イタイ子」だった(しつこい)。

冒頭のタクシー運転手が、「はい、三万円ね」と、
神話レベルの紀元前ギャグをぶちかましてしまったのも、
娘に子供が生まれたとか、美人のパンチラが見れたとか、
卵を割ったら黄身が2つ入ってたとか、
夢だけど夢じゃなかったとか、
何かいいことがあったに違いないのだ。

ここから得られる教訓は次の2つだ。

浮かれているときこそ、傍から見て滑稽なことになっていないか注意し、
気を引き締めてやらかさないようにしようということ。

そして逆に、やらかしている人を見ても、
「ああ、きっと何かいいことがあったんだな」と思い、
むやみに腹を立てずに広い心で受け止めようということ。

ちなみに私が最近、一番イラッときたのは、
ヤマト運輸の集配のワゴンに「シャア専用」と書かれた
赤い箱が積んであったことだ。

シャア_01

シャア_02

たぶん、彼もさぞかしいいことがあって
(佐川急便の女子社員と付き合いはじめたとか)、
それでただ浮かれてしまっただけなんだ。
きっとそうだ、うんうん。
と思い、私は溜飲を下げることにしたのだった。
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