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デリカシーの機微が問われる現代社会のさまざまな局面に、ぼんやりと警鐘を鳴らす無神経なコラム。

第20回 「残り物には汁がある」

第20回 残り物には汁がある

料理の残り汁にご飯を入れて食べるのが好きだ。

特に、カップラーメンや、ポトフなどの煮込み料理で、
メインとなる麺や具を食べ終わったあとのスープに目がない。

B級グルメにも満たないG(ゲス)級グルメであることは自覚しているが、
その反面、「一人で食事するときはみんなやってるんでしょ?」と
半ば当然のように思っていたので、私のこの食習慣に対して
「意地きたない」「貧乏くさい」と、
道端に吐き捨てられたタンを見るような目で
非難されたときには、正直、面食らった。

え、だって、汁物の料理って、その残り汁にこそ旨みが凝縮されているわけで、
具材を食べきったことは単なる通過儀礼にすぎないというか、
私にとっては「むしろここからがメインイベントだ」くらいの気持ちなのである。
汁こそが本番。
決して、AV男優の下克上の話ではない。


とにかく、私の「残汁道(ざんじるどう)」は筋金入りだ。

「なか卯」でカレーうどんを頼むときには、わざわざ単品でライスも頼み、
うどんを食べ終わった後の残り汁にライスを入れて二度楽しむ。

鶏のから揚げに甘辛い南蛮ソースがかかっていれば、
から揚げはなるべくソースを落として食べ、
余ったソースを寄せ集めてご飯を浸して食べる。

居酒屋で食べ終わった牛すじ煮込みの皿を下げられそうになると、
「まだこの汁が残ってるでしょうがあ!」(田中邦衛のマネで)と
本気で引き止めたくなり、名残惜しさを2分くらい引きずる。

家にいてカップラーメンくらいしか食べるものがないとき、
「ご飯が炊けていない」ことを理由に(残り汁にご飯が入れられない)
カップラーメンを食べること自体をやめたりする。

ことほどさように、「残り汁にご飯を浸す」は、
私にとって「ズボンに足を通す」と同じくらい自然なことなのに、
やんぬるかな、「残汁道」に世間の風は冷たい。

そもそも、「残り汁」という呼び名からして
「残ってるわけじゃねえよ」という憤りを感じてやまないのだ俺は。
「残ったのではない、残したのだ」という、
かの有名なダンテの言葉をあなた方は知らないのか。

ま、そんな言葉はないので知らなくても仕方ないわけだが、
とにかく、ラーメンに替え玉を入れることが、
鍋の最後を“おじや”で締めることが、
何の抵抗もなく当たり前のように受け入れられているのに、
なぜカップラーメンや他の料理の残り汁にご飯を入れることだけが、
こんなにも嫌悪の目で見られなければいけないのか、私には理解できない。

それにしても、なぜ私はときにわざと汁を余らせてまで、
残り汁でご飯を食べることに執着するのだろうか。
たぶん、私の中の基本思想として、
「美味いものは白飯で食いたい」という意識があるのだと思う。

たとえば、焼肉に行くと「ライスを頼んでしまうと、そのぶん肉が
食えなくなってもったいない」みたいな考え方をする人がいるが、
私の場合、たとえ肉効率(米や小麦で満腹にしてしまうのではなく、なるべく
コストパフォーマンスが高い肉で腹を満たそうという配分の割合)は下がっても、
「こんなにご飯と相性のいい肉があるのに、一緒に飯を
食べないことのほうがもったいない」と考え、ライスを頼んでしまう。

そう。
まだそれでご飯が食えるだけの味があるものを、
残したり捨てたりしてしまうのは、もったいない気がするのである。

もっと突き詰めて考えると、私は「おかずとご飯の関係」というものを、心のどこかで
「濃い味の料理は、味をご飯でうすく引き伸ばすことで長持ちさせて食べている」
と考えているようなふしがあり、だから濃い味の料理をご飯なしでそのまま食べるのは、
「味を余らせてしまって、もったいない」ということなのだと思う。

だとすると、実体のない「味」というものに対する
私のせこさ、もったいなさがり加減には常軌を逸したものがあり、
「意地きたない」「貧乏くさい」という周囲の非難も
あながち的外れではないのであった。

でも、美味しいよ、残り汁。

※近日中に、この「残り汁がうまい」という主張だけで、ONCのコンテンツを作るつもりなので、そちらのほうも動向を刮目していただきたい。

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