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デリカシーの機微が問われる現代社会のさまざまな局面に、ぼんやりと警鐘を鳴らす無神経なコラム。

デリカシーには貸しがある

第14回 「ゴッサムシティ鎌倉」

第14回 ゴッサムシティ鎌倉

行楽シーズンの鎌倉ほど、人をマゾヒスティックな気持ちにさせるものはないと、
今回はいきなりそんな出だしから入りたいと思うわけだが、

というのも、私は生まれも育ちも鎌倉で、
といっても、緑に囲まれ寺社が立ち並び眼前に海が広がる、
そんな万人が想像するような鎌倉の中心部ではなく、

その北部におまけのようにくっついている、
大船というベッドタウンに実家はあるんだけど、

人に説明するとき「実家は大船です」と言っても
「ああ、松竹の撮影所があったところね。寅さんの撮影してたんでしょ?」
などと物分かりのいい認知の仕方をしてくれる邦画シネフィルはまずいないし、

もちろん「昔、鎌倉シネマワールドって微妙なテーマパークがあったよね」などと、
松竹の古傷をほじくり返すようなマニアックなことを知っている者も皆無であって、

ましてや「大船って…あのアメリカザリガニが日本で最初に
持ち込まれた場所?
」などと言ってくれる友達もいないわけであって、
むしろそんなアタック25の解答者みたいな友達がいたら嫌だということもあり、

たいていの人が「ああ…大船ね……」と言って目を泳がせたまま、
途方に暮れて気まずいマジックアワーが訪れるのは面倒だし申し訳ないので、

そういうときは「実家は鎌倉です」といけしゃあしゃあと答えるようにしているものの、
それで「ああ、鎌倉ですか! いいところに住んでますねえ」などと
いいリアクションを返されると、それはそれでうしろめたい…という
大変に屈折した感情を、鎌倉中心部に対して抱くのが「大船住民あるある」なのだが、

そんな大船住民である私も、小中学生時代は鎌倉中心部まで毎日通学しており、
平素から修学旅行生やお年寄りたちが猛威を振るっている現状を知っていたし、
土日ともなれば、それこそ都心からの日帰り観光客で
町がひしめき合って地元住民は身動きが取れず、
子供ながらに「こんなとこ住むとこじゃねえな」と同情していたのだが、

怖いですね、恐ろしいですね、
東京暮らしが長くなると人の心まで変わってしまうんですね、
と、なぜかここだけ稲川淳二の口調だが、

そんな鎌倉の住民感情をすっかり忘れて完全に第三者の行楽客の立場で、
こともあろうにゴールデンウイークに、臆面もなくおめおめと、ぬけぬけと、のうのうと、
鎌倉へのこのこ出かけてしまった私であって、

そうして行ってみてたどり着いた結論は、
「みんな鎌倉に行きすぎじゃないだろうか」という、
お前これだけ句点( 。 )もなしに話を引っ張ってきておいて
それかよ、みたいな素朴なことになってしまうわけですが、

だってさ、だってね、
鎌倉駅から江ノ電に乗るだけで、
ただ乗ろうとしただけで、
「一時間待ち」
って言われたんすよ!
もう信じられないわけですよ、こちとら。

信じられないついでに、句点を打っちゃったんでね。
もうここから先は、これまで句点を節約してきたぶんまで。
むやみに。やたらと。句点を打っていこう。と、そう。思って。ますけれども。
なんなら。一度に2個も。。3個も。。。句点を。。。。打って。。。。。い。。。。。。け。ば。
いいと思って。。。。。。。。。。。。いますけれ。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。ども。

とにかく、江ノ電なんてね、たかが公共交通機関なんですよ。
地元住民も使う、ただの生活の足なんです。
ビッグサンダーマウンテンじゃないんです。
いや、トロッコみたいな車両が、民家スレスレを通っていく
あのジオラマ感は、確かにアトラクションぽいっちゃあ、ぽいが、
乗るだけで一時間待ちは、どう考えても異常だ。

いや、実際、鎌倉を訪れる観光客の大半は、
鎌倉をディズニーランドか何かと混同しているのかも知れない。

都心からさほど離れておらず、とはいえそれなりに電車を乗り継いで行く
そこそこの「おでかけ感」を味わうことができる距離にあって、
「古都」という一定のコンセプトを守ったさほど広くない箱庭的空間の中で、
寺社や仏像、和食や和菓子、海、カフェといったわかりやすい記号に取り囲まれて、
日常とはちょっと違うスピリチュアルやロハスのごっこ遊びが楽しめる。

鎌倉は、ミッキーマウスの代わりに坊さんとサーファーがパレードする、
スローライフ界のディズニーランドなのだ。

本物のディズニーランドと違うのは、スタッフと客との境界線がズルズルなこと。
おそらく、若い観光客で鎌倉に憧れを抱くのは、緑に囲まれた一軒家で、
採算とかをあんまり考えずにこだわりのコーヒーやらベーカリーを出す
カフェを営んで地元のマダムに愛されたいみたいな、そういう人たちだ。

そして、実際にそういう人たちが脱サラして鎌倉に家を買ってカフェを始めている、
鎌倉には最近、そんな店が本当に多い。

インディーズバンドとそのファンのような、
ハロプロのアイドルに熱狂していたかつての小学生女子のような、
「私にも手が届くかも知れない」等身大の幸せの形が、そこにはある。

京都が商業誌のジャンプなら、鎌倉はコミケの同人誌。
そして、同人誌で固定ファンにだけ愛されていればいいという
生き方を選択する人が、今は多いのだと思う。

思いがけずシリアスな話になってしまったが、
鎌倉が思いのほかいつまでも飽きられずに、
観光地としてのリノベーションに成功しているのは、
そういう人々の欲望抜きには考えられないなあと思ったのだった。

で、そういう人が消えていなくなれば、
鎌倉ももう少しのんびりした観光地になるんだろうけど。
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第13回 「酔ってパンツの緒を締めよ」

第13回 酔ってパンツの緒を締めよ

酔って粗相をしたことがない、なんて
清廉潔白なことは口が裂けても言えない身分であって、

浴びるほど酒を飲んだ日は、
ときにセクハラに及んで女性を押し倒したり、
部屋の壁に携帯電話を投げつけて穴を空けたり、
自暴自棄になってコンビニの袋を振り回したら
見知らぬマンションの茂みにちぎれたカレーパンが
吹っ飛んでいって行方不明に
なったり、
いろいろあった。

セックス&バイオレンス。あと、なんか…エスニック(カレーパンだから)。

よくわからんが、そういう私の日頃のキャラクターからは
似つかわしくないオスな一面が、酔ったときだけ
ムクムクと頭をもたげて立ち現われてくるのであって、

それが私の押さえつけていた本性なのか?と問われたら、
「本性なのだ」と答えるしかないのかもしれず、
だからって人間はそうやすやすと本性を見せてよろしい
ということには、なっていないのが現状だ。

そう、厄介なのは「本性」である。

小さい頃から、「人様には素直に、正直に生きなさい」と教育されている割に、
我々は「本性」を見せると怒られてしまう理不尽な存在なのである。

いや、そりゃあ私も大人ですよ。
そうそうめったやたらと「本性」を
ズルムケにして生きていいとは思ってないよ。
思っていても言わない、考えていてもやらないのが
分別ある大人のデリカシーであると、歯をくいしばって理解はしている。

だとしたら、なぜに世間はこんなにも酒に対して寛容で野放しなのか。
あまつさえ、飲めない奴はつまんねえみたいな空気をバンバン出してくるのか。
そこら辺、納得のいく説明が欲しい私がいるわけですよ。

酒といったらあなた、本性のリミッターを解除する格好のトリガーじゃないですか。
心の鍵を開けるピッキング犯みたいなもんじゃないですか。
心のスキマをお埋めするドーーーン!みたいなもんじゃないですか。

そりゃもう、精神に与える影響、常習性、依存性は明らかであって、
「アル中」なんて、一見「お前、どこ中?」みたいなフランクな響きを装っておきながら、
実際は中学生のようなかわいげなど微塵もなく、そのタチの悪さは大麻以上だとも聞く。

世間は、そんな悪魔の妙薬を「大人の嗜みだろ」みたいにグイグイ勧めておきながら、
いざ酒で粗相をしでかすと「大人としてなってない」と、
人を崖っぷちに追い詰める片平なぎさのような仕打ちをしてくる。

なんなの?
「世間」って「鬼」の別名?
自分からホテルに誘っておきながら、バレたら「ムリヤリ押し倒されたの」っていう女?

もちろん「節度ある酒量を自己管理するのが大人でしょ」という言い分なのはわかるが、
酒という強力な依存性薬物を相手にして、
それはデリカシーの要求水準が高すぎるのではないだろうか。
それってなんか、「落とすための面接」みたいな、
ムチを打ちたいがためにアメを与えてる感じがしません?

少なくとも、酔った上での粗相は、
「やらかしてしまったこと」を罪に問うのではなく、
「自分が本性を露呈してしまう酒量のラインを
管理できなかった管理責任」だけを問うべきだと思う。

それに、この世から本気でアルコールの害毒をなくしたいのなら、
「お酒、カッコ悪い。」とか、「ダメ、セッタイ。」とか、
「泥酔は、犯罪です。」とか呼びかければいいんだよ。
なぜ、酒を大麻並みに厳しく規制しないのか。

それができないのなら、大麻を酒並みに合法にすればいいのだ。
…いや、ごめん。それは違う。言い過ぎた。
よ、要するに、咽喉に詰まらせる危険性は同じなのに、
なぜ餅は許され、こんにゃくゼリーは製造中止になるのかという話だ。

餅とこんにゃくゼリーとを遠く隔てる、
「事情」という名の深くて暗いイムジン河。
その「事情」に、言い知れぬ欺瞞を感じてしまう私は、
「王様は裸だ」と臆面なく口にしてしまう子供なのでしょうか。
「裸だったら何が悪い」と夜空に叫んだチョナンカンなのでしょうか。

――答えはすべて、草なぎ君の脱いだウエストポーチの中に入っている。

そんな夢のある話だったら、いいのにな。
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第12回 「結婚とその他の風習」

第12回 結婚とその他の風習

先日、大学時代からの友人の結婚式に出席してきたのね。

彼女と交際相手との波乱万丈な紆余曲折については、
それだけでケータイ小説が1冊書けるほどに、
そして危機管理術のビジネス書が書けるほどに、
もしくは『龍が如く』を1日で攻略できるほどに、
スリリングでアクロバティックなエピソードが満載なのだが、
前途ある2人の門出のためにここでは割愛しておくことにする。

ともかく、あんな話もこんな話も知っている私にとっては、
無事に結婚までこぎつけた2人の姿は感無量であって、
そして、そんな温情点を差し引いても、掛け値なしにいい結婚式だった。

いい結婚式の条件とは何か。
それは、「自分たちが浮かれていることを自覚した上で、
わざと浮かれてみせるという客観性があるかどうか」ではないだろうか。

誓いのキス、ケーキ入刀、ファーストバイト、お色直し、2人の馴れ初めVTR、キャンドルサービス…。

結婚式には、幸せに浮かれた2人を手放しで肯定するような
ベタなイベントがふんだんにちりばめられているが、
これらは、来てくれた招待客をおもてなしするための「エンターテインメント」であって、
「幸せな2人」をパフォーマンスとして演出しているのだという自覚の下に行なわれるべきだと思う。

つまり、猿回しの猿が死んだフリをしたり、
ジャングルクルーズで滝に巻き込まれそうになったり、
上島竜兵が「押すなよ!押すなよ!」つって熱湯風呂に落とされるのと
基本的には一緒であって、このときの「ベタ」は、
わかりやすくするための手法としての「ベタ」じゃないすか。

それなのに、世の夫婦の多くはその「ベタ」を「ガチ」だと思い込み、
本気で浮かれてロマンチック空間に没入してしまいがちで、
残念なことに、そういう結婚式は実に多い。

私たちは、熱湯風呂に落とされるのが「おいしい」とわかってるくせに、
それでも「押すなよ!」つってる竜ちゃんがおもしろいのであって、
熱湯風呂に入るのを本気で嫌がっている竜ちゃんなんて、見ていてつらいだけなのである。

自分のしていることに疑いを持たず、
客観性や批判性を失い、手放しで肯定される場所。
そこには得てして、「恥」や「間抜け」が忍び込む。

先日の結婚式を私が「いい結婚式」だと思ったのは、
結婚誓約もファーストバイトもお色直しもキャンドルサービスも、
友人がやるとなぜか「そういうプレイをしている」ようにしか見えず、
「こういうことを本気でしている私って、おもしろいでしょ?」
と彼女が言っているように見えたからだ。

わかっていて、あえてそういう風に振る舞ってみせるということ。

結婚に限らず、今、すべての表現活動には
そういう自覚と客観性がなければお話にならないと思う。

スターとしてトウが立ち、芸能界から干されかけていたとき、
にしきのあきらは、あえて「スターにしきの」と名乗り、
セルフパロディを受け入れることでバラエティ番組から引っ張りだこになったが、
スターとして手放しで肯定されることに固執した
田原俊彦は、テレビからフェードアウトした。

にしきのは生き、田原俊彦は死ぬ。
現代は、そういう時代である。

そういう意味では、無理だとわかっていてあえて
「生涯添い遂げる」「浮気はしない」といった契約を結ぶ
結婚というシステム自体が、私にはすごくファンタジックな
コスチュームプレイをしているように見えて仕方がないんだけど。

なぜか結婚に関してだけは、みんな
自分は「田原俊彦」でいられる
と思ってるんだよなあ。

「わかっていて、あえてそういう風に振る舞ってみせるということ」
だと割り切って、それでもそのプレイを楽しめる人がいたら、
私はそういう人と結婚しようと思う。
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第11回 「ブスが街から消えるとき」

第11回 ブスが街から消えるとき

このところ女々しい話題が続いたので、
久々にオスっぽいことを書いてもいいだろうか。

最近、街からブスが消えたような気がする。

それでも昔は、道行けばここにも、ああここにも…と、
金曜の夜に駅のホームでオガクズが撒かれているのと
同じくらい必然的な確率で、街にはブスがいた。

休み時間に光化学スモッグ注意報が出されて
外で遊べなくなり、「あーあ…」とがっかりするのと
同じくらい的確な頻度で、街にはブスがいた。

それが今ではどうだろう。

みんながみんな、そこそこそれなりに
ほどほどの「美人度」をキープしていて、

思わずぎょっとするような、
思わず「ぎょっ」と口に出してのけぞって
うっかり頚椎を痛めるようなブスは、
とんとお目にかけないといっても過言ではない。

とはいえ、人類学的に考えても、
そう簡単に美人の頭数が増えるとは思えない。
だとすれば答えはひとつ。
美人が増えたのではなく、国民の
メイク技術の水準が格段に上がったのだ。

廉価でも充実したコスメグッズが誰にでも手に入り、
氾濫する女性誌のおかげで、
全国どこにいても美の統一規格を教育され、
「顔の正答例」を答え合わせできるようになった今、
あえて「間違う」ことのほうが難しくなっているのである。

つまり、こと「顔」において女性は、
よくしつけられた幕府の犬なのである。

もうひとつ、「顔」とは別に「プロポーション」の問題もある。

去年の夏、私がつとに感じたのは
「生足を大胆に露出する女性の増加」だった。

しかも、その出す生足出す生足がみな、
ししゃものようにほっそりとしたモデル並みの脚ばかりであって、
モビルアーマー然としたごんぶとな脚は、ついぞお見かけしなかった。

とはいえ、いくら食生活が欧米化したからといって、
小学生に「好きな食べ物は?」と聞けば、いまだに
寿司が1位とか2位に食い込んでくる現状にあって、

森理世さんをミス・ユニバースとして受け入れることに
一瞬、青汁を飲むときのような覚悟がいるほどに、
我々は身も心もズブのアジア人だ。

そんなアジアアジアした日本女性が、
突如として全員スタイルがよくなるわけがない。

つまり、「出してもいい人」しか生足を出していないのである。

「出していい」足の持ち主は、自分の足が
「出していい」ことをちゃんとわかって出しており、
そうじゃない人は、自分が「出していい」足でないことを
自覚して、ちゃんとしまっているということになる。

「見られる」そして「見せる」ということに
どんだけ成熟してしまったんでしょうか、現代の日本人女性は。
という話だ。

もちろん、街に美人があふれ、
きれいな足だけが目に触れる光景は、
男にとっては願ってもないいらっしゃいませ
そしていただきますという状況だ。

しかし、「生足を出す/出さない」という、
本来個人の自由であるはずの選択に、
見えないデリカシーのルールブックが存在し、
それを無言のうちに誰もが遵守している
社会というのは、いささかうす気味悪くないだろうか。

自分が「空気読めてない」ことに
怯えて足を出さないというのは、
割と飲み込みやすい従来の日本人って感じがするが、

自分が「空気読めてる」ことを
きっちり自覚して足を出し、
しかもそれがちゃんと世間の空気と
「一致してる」ってことがすごい。
ていうか恐ろしい。

末恐ろしい。

むしろ息苦しい。

すご末息苦恐ろしい。


そう。みんなが空気を読めすぎている社会というのは、息苦しいのである。

自分が「モビルアーマー」であることに無自覚なまま、
自然薯のような足をスカートから見え隠れさせている
ブスが堂々と街を闊歩していた頃もまた、
おおらかで情緒ある時代だったとはいえないだろうか。

手羽先のようにいびつな、
「世界の山ちゃん」みたいな足を
ズボズボ出してる人を見て、
「あ~あ…」とか思いながら町を歩くことにも、
それはそれで趣があったよな…
という郷愁にあなたは駆られないだろうか。

あなたは駆られなくても
高橋は駆られるかもしれない。
室田や富樫ならなおさらだ。

陰と陽、ネガとポジ、月とすっぽん、太陽とシスコムーン、
世界は、相反するアンビバレントな要素が渦巻く
カオスを許してこそ、バランスがとれるというものだ。

要するに、過剰にポジティブなものだけを肯定し、
ノイズを排除してしまう傾向は不健康だし、危険だと言いたいのです。

それはそれとして、北野誠の謹慎理由が
明らかにされることを切に願います。

では、今週はこれにてドロンします。
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第10回 「やらかしません夏までは」

第10回 やらかしません夏までは

先日乗ったタクシーの運転手がやけに陽気な人で、
「小石川の桜並木も、今が見頃のピークですねぇ」などと
花見に関する他愛もない世間話を交わしていたのだが、

「昨日もベロベロになっちゃったお客さん乗せて大変でしたよ。
いやあ、不景気なんですから、浮かれちゃいけませんなあ

なんて言っていた彼が、降り際の私に
三千円のお釣りを手渡すとき、さも嬉しそうに

「はい、三万円ね」

と、今どき下町の商店街の八百屋でも言わない
シーラカンスのような生きた化石ギャグをぶっぱなしたので、
あの、なんていうか、ものすごくイラッとした

私も大人なので、「お前が一番浮かれてるよ」という
ツッコミをぐっと飲み込み、振り上げた拳をパーにして
おとなしく三千円を受け取ったが、

そんなわけで、春はうっとうしい。

人がやらかし、そして、しでかす季節。
よせばいいのに、しなくていいことをする季節。
それが、春だ。

さくら

うららかな陽射しは、人をおおらかな気分にさせ、
満開の桜は、人の気分をみだりに浮かれさせ、
さらに「外で酒を飲む」という締まりのない行為が、
普段ははずさないハメやタガを、ずるずるに緩ませていく。

一年中生殖できる代わりに、
決まった発情期というものを失った人間が、
やり場のないリビドーを発散するために、
いわば「つじつま合わせ」として考案したシステム、
それが花見ではないかとすら思う。

それでも発散しきれずにこじれたモヤモヤが、
夢精のように外に漏れ出てしまう例は、枚挙にいとまがない。

電車でたまたま隣りに座った人が、
ブツブツと異界の言葉をつぶやいている
パーセンテージが最も高いのも、春である。

そういえば先日、「丼・定食50円引きキャンペーン」のおかげで、
深夜にもかかわらず近所の吉野家が猛烈に混雑しており、
初老のバイト店員がキャパシティを超えてテンパっていたのだが、

それを見ていた調理場の若いバイトがしびれを切らして
「もうこっちはいいですから向こう行ってあげてください」
と初老男の肩を押しのけたところ、彼はみるみる機嫌を悪くして、
あからさまにヤケクソな態度で接客を始めたのでびっくりした。

挙句に、下げた食器をわざとガシャンと音を立てて置くので、
若いバイトからそれをたしなめられると、
「わかったからさあ、君もグイッって押したりすんの、やめてよ」
などと詰め寄り、ちょっとした一触即発の空気になってしまったのである。

そんなどさくさの中で供された牛丼がうまいわけもなく、
心なしか俺のだけ具の「盛り」が少ないような気もして、
あの、なんていうか、ものすごくイラッとした

これも、おっさんの失われた発情期が路頭に迷い、
男子中学生のニキビのように怒りとして噴き出した結果だろう。
いわば私は、おっさんの夢精に付き合わされたようなもんだ。
そう書いたら、途端に気持ち悪くなってきた。

春先に起こるこうしたトラブルが面倒くさいのは、
「発情」がそもそもポジティブなエネルギーだからだと思う。

つらいしんどい辞めたい死にたい、
そういうネガティブなモチベーションがやらかすことよりも、

ハッピー嬉しい楽しい大好き!みたいな、
そういうポジティブな心意気がこじれてやらかしたことのほうが、
事の「やらかし度」はより濃密でうっとうしいのではないか。

それはたとえば、喪中ハガキよりも、
子供の写真入りのアットホームな年賀状のほうが、
ときに人を傷付け、イラッとさせるのに似ている。
いや、似てないか。


結婚という「いいこと」を報告した水嶋ヒロの会見は、まるで自分が
ドラマの主人公であるかのように妙に芝居がかっていてイラッとしたし、
WBC優勝という「いいこと」があったイチローは、明らかに「イタイ子」だった(しつこい)。

冒頭のタクシー運転手が、「はい、三万円ね」と、
神話レベルの紀元前ギャグをぶちかましてしまったのも、
娘に子供が生まれたとか、美人のパンチラが見れたとか、
卵を割ったら黄身が2つ入ってたとか、
夢だけど夢じゃなかったとか、
何かいいことがあったに違いないのだ。

ここから得られる教訓は次の2つだ。

浮かれているときこそ、傍から見て滑稽なことになっていないか注意し、
気を引き締めてやらかさないようにしようということ。

そして逆に、やらかしている人を見ても、
「ああ、きっと何かいいことがあったんだな」と思い、
むやみに腹を立てずに広い心で受け止めようということ。

ちなみに私が最近、一番イラッときたのは、
ヤマト運輸の集配のワゴンに「シャア専用」と書かれた
赤い箱が積んであったことだ。

シャア_01

シャア_02

たぶん、彼もさぞかしいいことがあって
(佐川急便の女子社員と付き合いはじめたとか)、
それでただ浮かれてしまっただけなんだ。
きっとそうだ、うんうん。
と思い、私は溜飲を下げることにしたのだった。
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第09回 「壊れかけのゲシュタルト」

第09回 壊れかけのゲシュタルト

あなたが何か本を読んでいるとするでしょ。

話をわかりやすく具体的にするために、ここでは仮に
押切もえの『モデル失格』を読んでいる、ということにしましょうよ。
もしどうしても嫌な人は、勝間和代の『断る力』でもいいですよ。

で、その中にたとえば「勃起」という言葉が出てきたとして、

「勃起に必要なのは、まず第一に人脈です」
「弱火で両面がこんがりときつね色になるまで勃起し…」
「農民たちは地主の圧制に対して一斉に勃起を起こしました」
「衣笠茸とよく似た形状を持つ小型の勃起茸は神経性の猛毒を持ち…」
「新自由主義的な米国型資本主義の勃起型経済構造においては…」
「5コマ漫画の展開は勃起承転結が基本です」

といった風に、同じ言葉が何度も何度も繰り返し出てくると、
不意に「あれ、“勃起”って本当にこんな字だったっけ?」
妙に違和感を覚えることがあるじゃないですか。

これを認知心理学の用語で「ゲシュタルト崩壊」と言うらしいんだけど、
そしておそらく『モデル失格』にも『断る力』にも
「勃起」という言葉は1回も出てこないと思うけど、
この現象は、身の回りでかなり頻繁に起きていると思うわけよ。

たとえば、今うちの部屋にはあだち充の『ラフ』がベッドの脇で全巻
平積みになっているんだけど、これを気分が落ちているときにじっと見てると、


ララララララララララ
フフフフフフフフフフ


という文字列がゲシュタルト崩壊を起こして


う う う う う う う う う う
つつつつつつつつつつ

と見えるのな。
人が落ちてるときに、あんまりな追い討ちなのである。

「癌」という字もずっと見ているとゲシュタルトが
崩れて「ダースベーダーの顔」に見えてくるし、
「マリリン・マンソン」は「マソソソ・マソソソ」に…って、
なんだかナイツのネタみたいになってしまったが、
とにかく、そういうことはきわめてしばしば起きる。

ゲシュタルトとはもともと「全体としてのまとまり」という意味だから、
言葉に限らず、たとえば人の顔とかにもゲシュタルトは存在するだろう。

ずっと見ているとゲシュタルト崩壊を起こしやすいのは、
たとえばともさかりえ麻生太郎の顔であって、
彼らは顔のパーツが三々五々「流れ解散」しているような印象を受けるが、
そして今、私はどさくさ紛れにひどいことを書いているのかもしれないが、
マイケル・ジャクソンのように本気でゲシュタルトが危機の人もいるので、
あえてそちらには触れない。

あるいはまた、大量脱退と新加入を繰り返して「モーニング娘。」
としてのゲシュタルトが崩壊してしまったり、
「関ジャニ∞」のようにそもそものゲシュタルトがはっきりしないグループもおり、
また、度重なる路線変更によって芸風がゲシュタルト崩壊を起こしてしまった人、
逮捕された音楽プロデューサーの元彼女や、落語家の元嫁のように、
人格のゲシュタルトがヤワヤワになってしまった人など、
芸能界はきわめてゲシュタルトが崩壊しやすい世界であるといえよう。

他にも、ゲシュタルト崩壊を起こしやすいものはたくさんある。
書店のビジネス書コーナーにおける勝間和代の顔アップの表紙とか。
あと、勝間和代っていう名前そのものとか。

そんな中で、今私がもっとも気がかりなのは、
実は「イチロー」のゲシュタルトなのである。

いつからか、イチローが試合の後にペラペラとしゃべりだすようになってから、
「あれ、イチローってこんなこと言う人だったっけ?」
「あれ、この人ってこんなに危なっかしいキャラだっけ?」
「ていうか、この人ってこんなに瞳孔開いてたっけ?
と、どんどんゲシュタルトが崩壊してきてしまった気がする。

特に、韓国のことを悪しざまに言うときのゲシュタルトが、危ない。

もちろん、先日のWBCでの奇跡のような活躍に対しては、
最大級の賛辞を贈りたい気持ちはあるものの、
ほとんど何を言っているのかわからないあのヒーローインタビューを見るたびに、
やはり私の心には、イチローに対する言い知れぬ「心配」がよぎり、
思わず聞きたくなってしまうのだ。

「あなたのゲシュタルト、崩壊してませんか?」と。

ま、かくいう私も、生き方のゲシュタルトはもはやグズグズですけどね。
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第08回 「永遠の予後不良」

第08回 永遠の予後不良

春です。

春うららです。

そういえば昔、ハルウララって馬がいたよね。

レースに決して勝てない、その「弱さ」がかえって注目を浴び、
いわば「負ける」ことで人気的には逆に「輝く」という
オリジナルな勝ち方でのし上がった馬だったわけだが、

今思えば、まだ「下流社会」という言葉が生まれるはるか以前、
「敗者には敗者の輝き方がある」ということを
初めて教えてくれたのが彼だったのかも知れない。

当時、ハルウララの人気を目の当たりにした私は、
しみじみこう思ったものだ。


羨ましい。


そのときの私がハルウララを見つめる視線は、
きっと女王様にいたぶられる奴隷を見つめる
M男の眼差しと同じだったはずである。


俺も、あんな風になりたい。

そう思い、ターフを勢い余って疾走したら、足首を粉砕骨折。

競馬の世界では、故障してもう競走馬として復帰できないことを「予後不良」と呼び、
それは暗に安楽死させられることを言い含んでいるのだが、

私の人生は、そうして骨折した後、ずっと安楽死されずに
予後不良のまま生き続けているみたいなもんだ。


ハマの大魔神 佐々木主浩

とか、

不発の核弾頭 爆笑問題

とか、人の名前に付くアオリの代名詞にもいろいろあるが、

永遠の予後不良 福田フクスケ

…こんなにつらいキャッチコピーは他にないだろう。


そう、終わらない予後不良はつらい。

正しいタイミングで物事を終わらせるというのは、
だから重要なことなのだよ、みなさん。


たとえば、紀香と陣内の離婚が連日のように報道されているが、
私にしてみればこれは、終わるべきものが然るべきときに
終わりを迎えただけの話であって、

「格差婚」というものに必要以上のロマンを感じていた人たちのがっかり感も、

「そら見たことか」と必要以上にしたり顔であげつらう人たちの優越感も、

私にはちーっとも理解ができないというか、おもしろみを感じない。


この話は、お互い「芸人の妻」になる気概も、
「女優の夫」になる心構えもなかった2人が、
やっぱり「同じ夢を見ることはできなかった」という、
ただそれだけのシンプルな話であって、
そこに「格差」も「美人女優」も「陣内の浮気」も、
一切持ち出す必要はナッシングだと思う。


2人がうまくいかなかったのは、
体の相性でも性格の一致でも愛情の深さでもなく、
「これがないと自分が自分でなくなっちゃう」という自我のベースが
決定的に違う世界にある2人だったから、ただそれだけだ。
人間同士が深い関係を切り結べるかどうかの決め手は、
ほとんどそれしかないと言ってもいい。


私は今でも覚えているが、
2人の結婚報道に世間が湧き立っていた頃、
バラエティ番組で陣内が紀香との結婚を茶化されるたびに、
彼は芸人だから当然それを笑いで処理しようとするんだけど、
彼ほど腕のある芸人が、素人目にもわかるくらい不自然に
いつもいつも一瞬だけ「空気が淀む」のな。

明らかにそのときの陣内の表情には、何らかの
戸惑いやためらい、躊躇、遠慮がよぎっており、
そのとき私は、この2人が長く続かないことを確信したのだ。


いわば2人は、始まったときからすでに予後不良だったわけで、
それはもう安楽死させるのが人道的だろうという話だ。
可哀想だからっていたずらに生き延びさせて苦しませたり、
屠殺して馬肉にして売ったりしちゃいかんと思うのだ。


何かを終わらせることは罪じゃない。

折れたからって負けではない。

往年のハルウララのように、「負けて輝く」術を誰もがそつなく身につける。

そろそろ、現代人はそれくらい成熟したステージに到達すべきだと思う。


ちなみに私は、第2回の連載であれだけ
「異性の前で動物をかわいがる」ことのふしだらさを
「デリカシーがない」と批判しておきながら、

つい先日、デートのような流れであっさりと、
それはもういけしゃあしゃあと猫カフェに行ってしまったのだった。
でもって、思うさま猫をかわいがってしまったのだった。

だからってそれを、決して「屈した」とは思わないでほしいのである。

あくまで前向きに折れた?

ていうか、折れたらたまたま方向が「前」だった?

そういう風に解釈してはくれないだろうか。
そして、これを「開き直り」と呼びたければ呼べばいいじゃないか。

ああ、いいじゃないか!
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第07回 「時には毒のない蝮のように」

第07回 時には毒のない蝮のように


落ちた。

連載の話ではない。
…って、いや、もちろん連載もじゅうぶん落ちているわけだが、
それ以上に、もっと人間として大事なものが、いろいろ落ちた気がして、深く反省している。

その上、連載まで落としてはいよいよ人として
だめだと思うので(だからもう落としてるんだけど)、
今回は、時間がないことを表わすためにフォント大きめの
エマージェンシーレイアウトでお届けしてもいいだろうか。
だめって言われてもそうするんだけどさ。

私は、午前10時とか11時とかに平気でタクシーに乗って会社へ行く社会のクズですが、
そんなクズにとっても、車内を流れる『大沢悠里のゆうゆうワイド』は心のオアシスであって、
特に毒蝮三太夫先生のコーナーには、いつも心洗われる思いになるのですね。

彼の高齢者いじりのテクニックには、実に学ぶところが多いと思う私なのです。

彼は、世間的には「毒舌キャラ」ということで通ってはいるが、
実のところ、彼の言葉は「ババア」たちをちっとも傷つけないように配慮されている。
本当に人を傷つける核心からはきちんと的をはずし続ける絶妙な采配を振るっており、
それでいてトータルイメージとしての「毒舌」という印象を残すことには見事に成功しているのだ。
「ババア、長生きしろよ!」は、昭和に誕生した日本最古の「ツンデレ」である。

難しいことを言ったが、要するに、毒蝮の毒舌は絶妙に「当たり障りがない」のだ。
途端に言い方がしょぼなくなってしまったきらいはあるものの、
しかし諸君、当たり障りがないってことをばかにしてはいけない。

当たり障りがないことを言えるのは、それだけで「うまく生きていく力」だと、私は思う。
たとえば、お昼のワイドショーに出ている人は、おしなべて一様に「当たり障りのない才能」を持っている。
大和田獏、大下容子、佐々木正洋……。
今、たまたま全員『ワイドスクランブル』の出演者ばかりになってしまったが、
彼らは揃いもそろって当たり障りがない。

映画にコメントをするおすぎ、グルメレポートをする彦麻呂、あるいは、恵俊彰の存在そのもの。
彼らもまた、「当たり障りがない」からといって責められることはないし、
むしろその「当たり障りのなさ」のおかげで、決して食いっぱぐれない。

泉谷しげるや井筒監督も、一見、頑固な怒りオヤジのキャラをかぶり、
「毒舌」に見せかけてはいるが、「実は言ってることはそうでもない」という意味では
やはり圧倒的に当たり障りがない人たちである。
ただ、彼らの場合は、底の浅いキャラ付けのせいで、
いざメッキが剥げたときのしょぼさが際立ってしまったのが失策であった。

その点、やはり毒蝮師匠の毒舌は、
正露丸が糖衣でくるまれているように「人情」でくるまれている。
無理のない、持って生まれた自然体の「当たり障りのなさ」なのだ。
これが、綾小路きみまろでは、こうはいかない。
彼は基本的に「どや顔」で毒舌を吐く。
そのどや顔が、人々の心を逆なで、
引いては「ヅラも暴いてやろう」という気にさせるのである。

何はともあれ、毒を吐くなら毒蝮のようにありたい。
なんなら、毒蝮そのものになりたい。
俺も、全国のマルエツやドラッグストアの店頭で、ジジイ、ババアに囲まれて和やかに談笑したい。

なぜ、そんな心にもないことを思うのかといえば、
今の私が、とても「当たり障りのある」状態にあるからで、
口を開けば当たり障りのあることを言ってしまいそうで仕方がないのだ。
必死で、何か関係のない、たとえば「加護ちゃんはそろそろハッスルに出て、インリン様の後を継げばいいのに…」とか楽しいことを考えて気を紛らわそうとするが、今こうしている間も綱渡りである。
こんなとき、当たり障りのなくいられる人が、心底羨ましい。

毒蝮だって、時には虫の居所が悪いときだってあろう。
そんなとき、目の前のババアに「この腐れ干し柿め!落ち葉の下で朽ちろ!」とか言って当たり障りたくなるときもあるだろう。
そんなとき、どうやって毒蝮は当たり障りなく、荒ぶる気持ちを抑えているのか。
知りたい。切に知りたい。
誰か、私に「当たり障り」の作法を教えてくれんだろうか。

とにかくその日、どうにも行き場のない気分だった私は、十分に「当たり障りのある」人をうやむやに抱き締め、人生最初の「同意のないキス」を、その人にしてしまったのだった。

落ちた。
人として、落ちた。
私にデリカシーを語る資格など、もうとっくにないのである。

ババア、そしてこれからババアになりゆく未来のババア、
みんなみんな、長生きしろよ!
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第06回 「不問に付されて仲間のように」

第06回 不問に付されて仲間のように

いきなりだが、私は「不問に付す」という言葉が大好きだ。

全体的にどことなく『ベニスに死す』を彷彿とさせる字面もかっこいいし、
「ふもんに・ふす」と全体を「ふ」でコーディネートしたライムの踏み方は、
「ガリレオ・ガリレイ」や「野比のび太」と通じるところがあってクールである。

そして何より、「問題をあえて問いたださないこと」という意味が素敵だ。
確かに問題はあるのに、それをあえて問題と見なさずに黙認する寛大さ、懐の深さ。
私のような人間にとっては、とてもありがたい、“助かる”言葉である。

「見えている」ものを“お気持ち”の力で無理繰り「見えていない」ことにして
スルーする心の持ちようは、いかにも日本人的であるとも言えるが、
見たくないことや聞きたくないことまで、思いがけず
ホイホイ知ることができてしまうこのご時世にあって、
ショッキングなできごとを受け止める際の「それでも強く生きるテクニック」として、
「不問に付す」というのは、きわめて重要なデリカシーのあり方ではないだろうか。

そして、「不問に付す」を語るにあたって、私が今とても気になっているのが、
「仲間由紀恵という存在の不思議さ」なのである。

仲間由紀恵という女優は、「不自然」だと思う。
今さら言葉を濁すつもりもないが、これは「不自然」としか言いようがない。
彼女の演技には、どこか浮世離れしているというか、地に足が着いていない違和感がある。
少なくとも、現在の俳優に求められている演技の「うまさ」とか「リアリティ」とは違うところに、彼女の演技観の軸足は置かれている。

しかし、彼女の難しいところは、それを単に「へた」と切って捨てることができない点だ。
そこが長谷川京子や伊東美咲と違う点であって、仲間由紀恵のそれは、「うまい」でも「へた」でもなく、「不自然」としか言いようがないのである。
テレビ業界も彼女の扱いを巡ってはうろたえたに違いなく、だからこそ彼女は
『トリック』や『ごくせん』のようなトリッキーな世界観に当てはめることで、
その「不自然」を相殺され、現にこれらの作品における彼女は、「はまり役」だった。

いわば仲間由紀恵は、女優としての実力をまさに「不問に付される」ことで、
かえってその立ち位置をうやむやにのぼり詰めてきたといってもよい。
不問に付されて、輝く。
そういうスターダムもあるのだということを、彼女は教えてくれたのである。

そして、現在放送中の『ありふれた奇跡』という
TVドラマでも、仲間由紀恵は見事に不問に付されている。
そして、その「不問に付され方」は、シナリオ界の巨匠・山田太一の
手腕によって、新たなステージに突入したといってよい。

山田太一のドラマは、台詞回しが独特なことで知られ、
それが一種ファンタジックな持ち味を醸し出しているわけだが、
若い未熟な役者がへたに演じようものなら、それは「不自然」以外の
何物でもなくなってしまうという大きなリスクを抱えている。

ところが、仲間由紀恵においては、その持ち前の不自然さと、台詞回しの不自然さが、
(不自然)×(不自然)=(かえってあり)
という奇跡の化学反応を起こしており、あろうことか
「こういう人って、確かにいるかも」と思えるまでになっているのである。
もちろんこれは、山田太一のほとんど完璧ともいえる人物造型や
場面設定、台詞運びの巧みさのおかげだろうが、ここで私はハタと気付いたのな。

ひょっとして仲間由紀恵は、演技が不自然なのではなく、
もともとのパーソナリティの持ち方やコミュニケーションの取り方を、
自分で統合しきれていない人なのではないかと思ったのだ。
そう考えると、長谷川京子や伊東美咲なども、
どこか自分の感情の解放の仕方がわかっていないような印象を受け、
そして彼女たちは、きまって同じ傾向の美人である。
おそらくはこの辺りに彼女たちのねじれた自我形成の秘密がありそうだが、今はそれを問うときではない。
まじめに精神分析するほど、このコラムはちゃんとしてない。

ともかく、山田太一は、そこまでまるっとお見通しで
仲間由紀恵にこの役を「当て書き」したに違いなく、
これはもうまさにプロフェッショナルの「不問に付し方」というか、
ここまでくれば不問に付されるほうも、“不問に付され冥利”に尽きるってもんである。

思えば、あらゆることを「不問に付す」ことで、世の中は成り立っている。
中川昭一が本当に酩酊していたのかは、結局、不問に付されているし、
谷亮子の妊娠が計画的なのか否かも、世間はたぶん不問に付すだろう。
「草刈正雄がヅラなのかどうか」「森光子と東山紀之の仲がどうだったのか」などは、
むしろぜひ率先して不問に付しておきたいところだ。
不問に付すから、うまくいくこともある。

隠したって、問題はある。
それはもう、致し方なくそこに存在しており、隠したってしょうがないのだ。
だから私は、人生とはそれをどこまで不問に付すのか、不問に付せるのか、
そのデリカシーのギリギリの瀬戸際を、人とすりあわせていく作業であると思う。

できれば私も、不問に付されて付されまくって、付され尽くした
その波打ち際で、仲間由紀恵とジャブジャブ遊んでいたい。
不問に付されて、仲間のように生きたい。

だからもちろん、月曜日更新のこのコラムを落としたことだって、
不問に付して欲しい気持ちでいっぱいなのだ。
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第05回 「馬鹿になりたい!」

第05回 馬鹿になりたい!

馬鹿になれ!

偉大なるアントニオ猪木先生はかつてそう言ったが、
私は今、切実に馬鹿になって、何もかもが
わからなくなってしまいたい気持ちでいっぱいだ。

あのね。
こう見えて、かつて「第2回ぴあコラム大賞」を獲ってるんです、俺は。
で、天下の『Weeklyぴあ』に半年間、毎週コラムを連載してもいた。
結局、その賞は私の次の年の第3回で何の告知もなく廃止され、
それ以降、この経歴は特に俺に何の権威も影響力も及ぼさずに、
この通り現在に至るわけだけど、あの頃は、確かにがんばっていた。
がんばって、そして、おもしろかった。

馬鹿になれ!
猪木先生もそう思いながら読んでくださっていたのではないか。

このコラムは、そんな私がほぼ5年ぶりに書く連載コラムであって、
「まだ衰えちゃいないぜ」、もしくは
「衰えているかもしれないけど魂は死んでないぜ」、あるいは
「衰えているのでリハビリさせてください」という気持ちで毎回臨んでいる。
もちろん「馬鹿になれ!」ともだ。
少なくとも、「正しくくだらなくありたい」という思いは、折り目正しく常にシャキーンと持ち合わせているつもりだ。

でもね。
でもさ。
いつもそういうストイックな気持ちでいられたら、とっくにプロになってるよ。
「ぴあコラム大賞作家」と言われて、売れっ子になってございますよ。
デザイナーズ・チェアに裸の美女をはべらせて、ワイングラス片手に膝にはチェシャ猫を抱えてますよ。
腰にはトカちゃんクニちゃんベルトを巻いてますよ。巻いてませんよ。

それが現状そうなっていないのは、
俺が「ものわかりのいいプロ」になるくらいなら、
「はみ出し者のアマチュア」でいたいと、
心のどこかできっと思ってしまっているからだ。

たとえば、このコラムは世にはびこるデリカシーについて書くコラムであって、
プロならば、一度そう決めたからには、どんなときもしれっと
デリカシーに対して一家言ある風情を演じなければいけないのだろう。

しかし、今の私の正直な気分は、
「でりかしいいいい? なにそれええええええええええへへへへ(語尾が途中からグラデーションで薄ら笑いに変化)!」と、
よだれを垂らしながら、鼻くそをほじった指で
キーボードを叩きたい気持ちでいっぱいなのである。
キーボードには、食べこぼしたカントリーマアムのカスがボロボロしているのである。
それにアリがたかって行列を作っている。そのアリをアリクイがなめてる。
そのアリクイを俺がなめてる。
馬鹿になれ!
…って、本当に馬鹿になってしまってはだめだが、
つくづく、プロじゃない。

それにみなさん、もしかするととっくにお気付きかもしれないが、
今日のこの文章、完全にアルコール入ってます。
正直、デリカシーをどうこう語れる精神状態ではちっともないのであります。
それどころか、なけなしのデリカシーを後生大事に守って、
そのせいで肝心なものが手に入らないくらいなら、
いっそデリカシーなんか一切手放してしまえ!
そして、馬鹿になれ!
そういう気分で胸がいっぱいなのです。

これを暴言と呼ぶものもいるだろう。
でもほら、酒のせいにすればなかったことになるじゃない、日本人って。
もちろん、G7みたいな大事な場所では、さすがにかばいきれずに大臣を辞任するハメになったりするわけだが、少なくともサラリーマンの接待くらいなら、「酒の席でやったことですので…」は、言い訳として通用する。
「馬鹿になれ!」と、背中を押されて許される場所、それが宴席だ。

しかし、アルコールが人の理性や建前をはぎとってしまうのだとすれば、
むしろ酔っている状態の発言こそ「本当のこと」であり、
人としての「うまみ」の部分ではないのかとも思う。
シラフの状態と、酔った状態を別人格として分けてしまうのは、
リバーシブルのジャンパーみたいで便利だが、あとで絶対つじつまが合わなくなる。
解離させてしまうと、かえって危険があぶない。
シラフの馬鹿も、酔った馬鹿も、本当は同じひとつの馬鹿なのだからして。
私は不思議ちゃんみたいなことを言っているでしょうか。

たまには、こうして酔って書きたいときもあるんだよ。
酔わせてよ、書かせてよ、そして許してよ。
そしてもちろん、馬鹿になれ!
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