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デリカシーの機微が問われる現代社会のさまざまな局面に、ぼんやりと警鐘を鳴らす無神経なコラム。

第12回 「結婚とその他の風習」

第12回 結婚とその他の風習

先日、大学時代からの友人の結婚式に出席してきたのね。

彼女と交際相手との波乱万丈な紆余曲折については、
それだけでケータイ小説が1冊書けるほどに、
そして危機管理術のビジネス書が書けるほどに、
もしくは『龍が如く』を1日で攻略できるほどに、
スリリングでアクロバティックなエピソードが満載なのだが、
前途ある2人の門出のためにここでは割愛しておくことにする。

ともかく、あんな話もこんな話も知っている私にとっては、
無事に結婚までこぎつけた2人の姿は感無量であって、
そして、そんな温情点を差し引いても、掛け値なしにいい結婚式だった。

いい結婚式の条件とは何か。
それは、「自分たちが浮かれていることを自覚した上で、
わざと浮かれてみせるという客観性があるかどうか」ではないだろうか。

誓いのキス、ケーキ入刀、ファーストバイト、お色直し、2人の馴れ初めVTR、キャンドルサービス…。

結婚式には、幸せに浮かれた2人を手放しで肯定するような
ベタなイベントがふんだんにちりばめられているが、
これらは、来てくれた招待客をおもてなしするための「エンターテインメント」であって、
「幸せな2人」をパフォーマンスとして演出しているのだという自覚の下に行なわれるべきだと思う。

つまり、猿回しの猿が死んだフリをしたり、
ジャングルクルーズで滝に巻き込まれそうになったり、
上島竜兵が「押すなよ!押すなよ!」つって熱湯風呂に落とされるのと
基本的には一緒であって、このときの「ベタ」は、
わかりやすくするための手法としての「ベタ」じゃないすか。

それなのに、世の夫婦の多くはその「ベタ」を「ガチ」だと思い込み、
本気で浮かれてロマンチック空間に没入してしまいがちで、
残念なことに、そういう結婚式は実に多い。

私たちは、熱湯風呂に落とされるのが「おいしい」とわかってるくせに、
それでも「押すなよ!」つってる竜ちゃんがおもしろいのであって、
熱湯風呂に入るのを本気で嫌がっている竜ちゃんなんて、見ていてつらいだけなのである。

自分のしていることに疑いを持たず、
客観性や批判性を失い、手放しで肯定される場所。
そこには得てして、「恥」や「間抜け」が忍び込む。

先日の結婚式を私が「いい結婚式」だと思ったのは、
結婚誓約もファーストバイトもお色直しもキャンドルサービスも、
友人がやるとなぜか「そういうプレイをしている」ようにしか見えず、
「こういうことを本気でしている私って、おもしろいでしょ?」
と彼女が言っているように見えたからだ。

わかっていて、あえてそういう風に振る舞ってみせるということ。

結婚に限らず、今、すべての表現活動には
そういう自覚と客観性がなければお話にならないと思う。

スターとしてトウが立ち、芸能界から干されかけていたとき、
にしきのあきらは、あえて「スターにしきの」と名乗り、
セルフパロディを受け入れることでバラエティ番組から引っ張りだこになったが、
スターとして手放しで肯定されることに固執した
田原俊彦は、テレビからフェードアウトした。

にしきのは生き、田原俊彦は死ぬ。
現代は、そういう時代である。

そういう意味では、無理だとわかっていてあえて
「生涯添い遂げる」「浮気はしない」といった契約を結ぶ
結婚というシステム自体が、私にはすごくファンタジックな
コスチュームプレイをしているように見えて仕方がないんだけど。

なぜか結婚に関してだけは、みんな
自分は「田原俊彦」でいられる
と思ってるんだよなあ。

「わかっていて、あえてそういう風に振る舞ってみせるということ」
だと割り切って、それでもそのプレイを楽しめる人がいたら、
私はそういう人と結婚しようと思う。

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