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デリカシーの機微が問われる現代社会のさまざまな局面に、ぼんやりと警鐘を鳴らす無神経なコラム。

第08回 「永遠の予後不良」

第08回 永遠の予後不良

春です。

春うららです。

そういえば昔、ハルウララって馬がいたよね。

レースに決して勝てない、その「弱さ」がかえって注目を浴び、
いわば「負ける」ことで人気的には逆に「輝く」という
オリジナルな勝ち方でのし上がった馬だったわけだが、

今思えば、まだ「下流社会」という言葉が生まれるはるか以前、
「敗者には敗者の輝き方がある」ということを
初めて教えてくれたのが彼だったのかも知れない。

当時、ハルウララの人気を目の当たりにした私は、
しみじみこう思ったものだ。


羨ましい。


そのときの私がハルウララを見つめる視線は、
きっと女王様にいたぶられる奴隷を見つめる
M男の眼差しと同じだったはずである。


俺も、あんな風になりたい。

そう思い、ターフを勢い余って疾走したら、足首を粉砕骨折。

競馬の世界では、故障してもう競走馬として復帰できないことを「予後不良」と呼び、
それは暗に安楽死させられることを言い含んでいるのだが、

私の人生は、そうして骨折した後、ずっと安楽死されずに
予後不良のまま生き続けているみたいなもんだ。


ハマの大魔神 佐々木主浩

とか、

不発の核弾頭 爆笑問題

とか、人の名前に付くアオリの代名詞にもいろいろあるが、

永遠の予後不良 福田フクスケ

…こんなにつらいキャッチコピーは他にないだろう。


そう、終わらない予後不良はつらい。

正しいタイミングで物事を終わらせるというのは、
だから重要なことなのだよ、みなさん。


たとえば、紀香と陣内の離婚が連日のように報道されているが、
私にしてみればこれは、終わるべきものが然るべきときに
終わりを迎えただけの話であって、

「格差婚」というものに必要以上のロマンを感じていた人たちのがっかり感も、

「そら見たことか」と必要以上にしたり顔であげつらう人たちの優越感も、

私にはちーっとも理解ができないというか、おもしろみを感じない。


この話は、お互い「芸人の妻」になる気概も、
「女優の夫」になる心構えもなかった2人が、
やっぱり「同じ夢を見ることはできなかった」という、
ただそれだけのシンプルな話であって、
そこに「格差」も「美人女優」も「陣内の浮気」も、
一切持ち出す必要はナッシングだと思う。


2人がうまくいかなかったのは、
体の相性でも性格の一致でも愛情の深さでもなく、
「これがないと自分が自分でなくなっちゃう」という自我のベースが
決定的に違う世界にある2人だったから、ただそれだけだ。
人間同士が深い関係を切り結べるかどうかの決め手は、
ほとんどそれしかないと言ってもいい。


私は今でも覚えているが、
2人の結婚報道に世間が湧き立っていた頃、
バラエティ番組で陣内が紀香との結婚を茶化されるたびに、
彼は芸人だから当然それを笑いで処理しようとするんだけど、
彼ほど腕のある芸人が、素人目にもわかるくらい不自然に
いつもいつも一瞬だけ「空気が淀む」のな。

明らかにそのときの陣内の表情には、何らかの
戸惑いやためらい、躊躇、遠慮がよぎっており、
そのとき私は、この2人が長く続かないことを確信したのだ。


いわば2人は、始まったときからすでに予後不良だったわけで、
それはもう安楽死させるのが人道的だろうという話だ。
可哀想だからっていたずらに生き延びさせて苦しませたり、
屠殺して馬肉にして売ったりしちゃいかんと思うのだ。


何かを終わらせることは罪じゃない。

折れたからって負けではない。

往年のハルウララのように、「負けて輝く」術を誰もがそつなく身につける。

そろそろ、現代人はそれくらい成熟したステージに到達すべきだと思う。


ちなみに私は、第2回の連載であれだけ
「異性の前で動物をかわいがる」ことのふしだらさを
「デリカシーがない」と批判しておきながら、

つい先日、デートのような流れであっさりと、
それはもういけしゃあしゃあと猫カフェに行ってしまったのだった。
でもって、思うさま猫をかわいがってしまったのだった。

だからってそれを、決して「屈した」とは思わないでほしいのである。

あくまで前向きに折れた?

ていうか、折れたらたまたま方向が「前」だった?

そういう風に解釈してはくれないだろうか。
そして、これを「開き直り」と呼びたければ呼べばいいじゃないか。

ああ、いいじゃないか!

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