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デリカシーの機微が問われる現代社会のさまざまな局面に、ぼんやりと警鐘を鳴らす無神経なコラム。

第06回 「不問に付されて仲間のように」

第06回 不問に付されて仲間のように

いきなりだが、私は「不問に付す」という言葉が大好きだ。

全体的にどことなく『ベニスに死す』を彷彿とさせる字面もかっこいいし、
「ふもんに・ふす」と全体を「ふ」でコーディネートしたライムの踏み方は、
「ガリレオ・ガリレイ」や「野比のび太」と通じるところがあってクールである。

そして何より、「問題をあえて問いたださないこと」という意味が素敵だ。
確かに問題はあるのに、それをあえて問題と見なさずに黙認する寛大さ、懐の深さ。
私のような人間にとっては、とてもありがたい、“助かる”言葉である。

「見えている」ものを“お気持ち”の力で無理繰り「見えていない」ことにして
スルーする心の持ちようは、いかにも日本人的であるとも言えるが、
見たくないことや聞きたくないことまで、思いがけず
ホイホイ知ることができてしまうこのご時世にあって、
ショッキングなできごとを受け止める際の「それでも強く生きるテクニック」として、
「不問に付す」というのは、きわめて重要なデリカシーのあり方ではないだろうか。

そして、「不問に付す」を語るにあたって、私が今とても気になっているのが、
「仲間由紀恵という存在の不思議さ」なのである。

仲間由紀恵という女優は、「不自然」だと思う。
今さら言葉を濁すつもりもないが、これは「不自然」としか言いようがない。
彼女の演技には、どこか浮世離れしているというか、地に足が着いていない違和感がある。
少なくとも、現在の俳優に求められている演技の「うまさ」とか「リアリティ」とは違うところに、彼女の演技観の軸足は置かれている。

しかし、彼女の難しいところは、それを単に「へた」と切って捨てることができない点だ。
そこが長谷川京子や伊東美咲と違う点であって、仲間由紀恵のそれは、「うまい」でも「へた」でもなく、「不自然」としか言いようがないのである。
テレビ業界も彼女の扱いを巡ってはうろたえたに違いなく、だからこそ彼女は
『トリック』や『ごくせん』のようなトリッキーな世界観に当てはめることで、
その「不自然」を相殺され、現にこれらの作品における彼女は、「はまり役」だった。

いわば仲間由紀恵は、女優としての実力をまさに「不問に付される」ことで、
かえってその立ち位置をうやむやにのぼり詰めてきたといってもよい。
不問に付されて、輝く。
そういうスターダムもあるのだということを、彼女は教えてくれたのである。

そして、現在放送中の『ありふれた奇跡』という
TVドラマでも、仲間由紀恵は見事に不問に付されている。
そして、その「不問に付され方」は、シナリオ界の巨匠・山田太一の
手腕によって、新たなステージに突入したといってよい。

山田太一のドラマは、台詞回しが独特なことで知られ、
それが一種ファンタジックな持ち味を醸し出しているわけだが、
若い未熟な役者がへたに演じようものなら、それは「不自然」以外の
何物でもなくなってしまうという大きなリスクを抱えている。

ところが、仲間由紀恵においては、その持ち前の不自然さと、台詞回しの不自然さが、
(不自然)×(不自然)=(かえってあり)
という奇跡の化学反応を起こしており、あろうことか
「こういう人って、確かにいるかも」と思えるまでになっているのである。
もちろんこれは、山田太一のほとんど完璧ともいえる人物造型や
場面設定、台詞運びの巧みさのおかげだろうが、ここで私はハタと気付いたのな。

ひょっとして仲間由紀恵は、演技が不自然なのではなく、
もともとのパーソナリティの持ち方やコミュニケーションの取り方を、
自分で統合しきれていない人なのではないかと思ったのだ。
そう考えると、長谷川京子や伊東美咲なども、
どこか自分の感情の解放の仕方がわかっていないような印象を受け、
そして彼女たちは、きまって同じ傾向の美人である。
おそらくはこの辺りに彼女たちのねじれた自我形成の秘密がありそうだが、今はそれを問うときではない。
まじめに精神分析するほど、このコラムはちゃんとしてない。

ともかく、山田太一は、そこまでまるっとお見通しで
仲間由紀恵にこの役を「当て書き」したに違いなく、
これはもうまさにプロフェッショナルの「不問に付し方」というか、
ここまでくれば不問に付されるほうも、“不問に付され冥利”に尽きるってもんである。

思えば、あらゆることを「不問に付す」ことで、世の中は成り立っている。
中川昭一が本当に酩酊していたのかは、結局、不問に付されているし、
谷亮子の妊娠が計画的なのか否かも、世間はたぶん不問に付すだろう。
「草刈正雄がヅラなのかどうか」「森光子と東山紀之の仲がどうだったのか」などは、
むしろぜひ率先して不問に付しておきたいところだ。
不問に付すから、うまくいくこともある。

隠したって、問題はある。
それはもう、致し方なくそこに存在しており、隠したってしょうがないのだ。
だから私は、人生とはそれをどこまで不問に付すのか、不問に付せるのか、
そのデリカシーのギリギリの瀬戸際を、人とすりあわせていく作業であると思う。

できれば私も、不問に付されて付されまくって、付され尽くした
その波打ち際で、仲間由紀恵とジャブジャブ遊んでいたい。
不問に付されて、仲間のように生きたい。

だからもちろん、月曜日更新のこのコラムを落としたことだって、
不問に付して欲しい気持ちでいっぱいなのだ。

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