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デリカシーの機微が問われる現代社会のさまざまな局面に、ぼんやりと警鐘を鳴らす無神経なコラム。

デリカシーには貸しがある

『ぴあ』休刊に寄せて ~福田サゲチン伝説 エピソード0~


どうも、ご無沙汰してます。
福田フクスケです。

雑誌が冬の時代と言われて久しいですね。

ここ数年、休刊になった雑誌を挙げれば枚挙にいとまがないです。


ダカーポ、ヤングサンデー、スタジオボイス、
広告批評、TOKYO1週間、スタジオボイス、
あと、スタジオボイ……


まあ正直パッと思いつくのはそれくらいですけれども、
それくらいだからこそ休刊しちゃうわけです。


でも、まさかこの雑誌がなくなるとは誰が予想したでしょうか。


ぴあ。
ぴあ最終号


いや、まあ数年前に週刊から隔週刊になったときから、
なんとなくうすうす予想はしてたけど。
情報誌ヤバそうだなあ、とは思っていたけど。


でも、80年代に「情報を売る」という
消費スタイルをいち早く確立させ、

小劇場演劇をはじめとするエンタメ興業の流通のあり方を一変させた
エポックメイカーとしての功績は大きいわけじゃない。

エボリューショナーだったわけじゃない。

ペレストロイカーだったわけじゃない。


そんな『ぴあ』が休刊すると聞けば、寂寞感もひとしおです。


だってね、何を隠そうこの私・福田フクスケの
コラムニストとしての商業誌デビューは
この『ぴあ』だったんですよ!



今ではもう『ぴあ』自身ですら
“なかったこと”にしていると思いますが、
かつて「ぴあコラム大賞」というものがあってですね。

全国から広くコラムニスト志望者の原稿を募り、
大賞受賞者には『ぴあ』本誌で連載権がもらえるという、
それは夢のような公募コンテストがあったわけです。

…まあ今となっては本当に夢だったんじゃないかと思ってますけれども。


その第2回で私、見事に大賞をいただきまして、
2003年の半年間、『お前のバカで目が覚める!』
というコラムを毎週連載してたんですよ。

ただ一介の大学生ふぜいが、
ちゃんと原稿料もらって、
あの『ぴあ』に。


そりゃあ嬉しかったよね。
たぶんこのときの連載経験がなかったら、
そのあと編集やってフリーライターになるって
道を歩むこともなかったと思います。

それがよかったか悪かったかは別にしてですけどね!


だから、こうして今の俺がいるのは、
本当に『ぴあ』のおかげなんです。

いい意味でも悪い意味でもですけどね!


ただまあ、こっからが「福田チューインガム伝説」の始まりであり、
「福田サゲチン劇場」の幕開けなんですけれども。


こんな千載一遇のチャンスをものにしたにもかかわらず、
大した反響もなく、ふわっとした理由で
ぼかされて
連載は半年で終了します。

ちなみに余談ですが、
第1回の大賞受賞者である山田スイッチさんは、
1年間続いた連載が見事単行本化。
その後、単著も数冊出されています。

山田スイッチの場合


一方、その後漠然と物書きをしたいなあと思いつつも
執筆も売り込みもきちんとしていなかった私は、

「ぴあ連載」という絶好のセールスポイントを
次の仕事につなげることができず、

何の糸口もつかめないまま
あれよあれよという間に就活時期を迎え、
一社だけ受けたマガジンハウスに最終選考であえなく不合格。


ようやく焦ったところで、もはやどこも採用募集などしておらず、
かろうじて秋口になっても募集を続けていた
都内の某編集プロダクションへすべりこみ就職。

忙殺がデフォルトの業界体質ですっかり社畜色に染まり、
なんとそのまま5年間も漫然とい続けることになるのです。

福田フクスケの場合

ちなみに余談ですが、
ぴあコラム大賞は、私が受賞した翌年の第3回で、
募集のテンションが明らかにトーンダウン。

受賞者の連載スペースも目に見えて狭くなり、
とうとう翌年の募集は行われないまま、
賞自体が第3回で終了しました。


なんかこれ…俺のせいっぽくない?


だってさあ、普通に考えてすごいことだよ「ぴあに連載」って。
それが、わずか3年でみるみる賞レースとしての魅力を失い、
いまや誰もその存在を覚えていないって……。
そんなことある? 考えられる?


しかも、これはまあ考え過ぎだと思うんだけど、
なんとなくね、きもーち、心なしかではあるけど、

ちょうど俺が連載した頃からだったんじゃないかな…
『ぴあ』の雑誌としての勢いが衰え始めたのは……。


も、もちろん気のせいなんだけどさ!


かくして、「ぴあコラム大賞受賞」という賞歴の持つ
意味と輝きは、すみやかなテンポでみるみる色褪せていき、
私は今こうして、あっけらかんとゼロから
フリーライターとしての道を出直しているわけです。


今でも思います。
あのとき、連載の余勢を駆って
執筆と売り込みをちゃんとがんばって、
思いきってフリーになっていれば、

今、それなりの地位で楽できていたんじゃないかって。

福田フクスケの場合


だってね、本当にもう、こんなこと言いたくないんですけど、
当時の原稿を読み返してみたら、すごくおもしろいんだ。

よくこんなの毎週書けてたなあって、感心するもの。
「誰だこのおもしろい奴は」って、
自分のことなのに軽く乖離起こしますもの。


今、月1で連載してる『ポパイ』のコラムが
1年8か月かかってようやく20回目になるんだけど、
ギャグのセンスも切れ味も密度も、構成の凝り方も、
半年で24回書いた『ぴあ』のコラムに及んでいないと思う。

正直、あれと同じものはもう書けないよね。


よく、女性がヌード写真を撮るときに、
「いちばん若くてきれいな時を記録に残したかった」
とか言うでしょ。

素人ヌード

あれはさ、自分が40歳、50歳になってから
本当に大切な人に出会ってしまったときに、

若い頃の私を知ってほしい、
きれいだった私に欲情してほしいと思って、

きっとその写真を見せるわけじゃないですか。
それで自分もまた自信を取り戻すわけですよ。


その気持ち、今なら大いにわかるもの。
好きな人には自分の書いたおもしろいものは知ってほしいし、
たとえばこれから出会って結婚する女性がいるとして、
やっぱり読んでもらいたいもん、この原稿を。

生まれてくる子供にだって、

「パパはなあ、昔こんなおもしろコラムを…

…って、ごめん、ありえない夢を見て
思わず気分がしんみりしてしまったので、
話を元に戻すけれども。


ただね、当時の原稿をあらためて読んで、
俺はちょっとたまげましたね。

だって、芸能人や一流企業の固有名詞をバンバン出して、
揶揄・嘲笑のオンパレードなんだもの。
パレードっつうか、もはやデモ行進の勢いよ。

たとえば、一例をちょっと挙げてみましょうか。

米米クラブの無駄な人数の多さがそれなりの迫力を生んでいたように、京本政樹がモミアゲ込みで京本政樹であるように、足して足された自分の付加価値を寄せて上げてかき集めて、無理矢理Cカップくらいにしてあなたもなんとか生きているのでしょ?
(第六回「付加なんていらねぇよ、夏」より)


平井堅の顔のホリの深さに溜まった水を飲んで生き延びたとか、照英の顔の濃さで河川の透明度がちょっと下がったとか、室伏の顔のバタ臭さで出なかった母乳が出るようになったとか、各地からさまざまな報告が寄せられているとかいないとか。
(第七回「顔面濃度計の針を振り切れ!」より)
 

そもそもなんでソニンってあんなに見ていて痛々しいんだろうか。(中略)要するに一言で言えば、そう、無念。志半ばにしてユウキのせいで夢ついえた「EE JUMP」の無念を、ソニンは今も水子供養のように引きずり続けているように私には見えるのだ。もう名前もソニンやめて「ムネン」でいいような気がする。
(第九回「哀歌は背負うよ、どこまでも」より)



……ね?

何が「ね?」なのかわかんないけど、
とりあえず「これ、よく載ったな」の一言に尽きるよ。


『ぴあ』ってさあ、エンタメ情報誌じゃないすか。
芸能人や事務所や興業主の怒りを買ったら、死活問題だと思うわけ。

「オスカーのタレントの出演情報だけ載ってない」とか、
「研音のタレントだけ伏せ字になってる」とか、ありえないでしょ。

にもかかわらず、なにこの無骨なチャレンジ精神。
平和な大地に、無理やり敵を作って戦いを挑むようなこの所業。

もう少し、当時の原稿から引用してみましょうか。


いつも「ビバ無難」をスローガンに、バラエティ番組における恵俊彰の存在感のような、毒にも薬にもならない服装を心がけている。
(第十四回「着こなしませんシャツまでは」より)


これからは好きなタレントは菊川怜ですって言うからさ。台詞をしゃべっても司会をしても、すべて手に負えてないのにあんなにスカッと元気なのがいいよね。常に順調に最安値を更新しつつ、その安さ元手に無理矢理輝いてる大雑把な感じが痛々しく潔い。(中略)
底値でモテる。そんな菊川怜な生きかたこそ、現代人のはかない希望ではないだろうか。
(第十七回「TVショッピングのサクラに安いと叫ばれたい」より)


なかったことにしたいことを、あえて忘れない勇気も必要じゃないだろうか。
「昔SMAPにはね、森っていう子がいたんだよ・・・・・・」私は孫にそう語り継ぐ、後ぐされた年寄りになりたいのだ。
(第十九回「酔って消せない過去もある」より)



どうしたどうした!
討ち死にしたいのか、『ぴあ』!


怒られるって!
見つかったら絶対怒られるって!


森クンのこと言っていい雰囲気になったの、つい最近だよね?
それだって「※ただし、メンバーに限る」だよね?


私もあれから、ずるずると無駄に長く出版業界にいた。
だから、今ならわかります。

業界の大人の事情も知らない一介のバカ大学生に、
そんな事情の存在にとうとう最後まで気付かせず
自由に書かせてくれた、『ぴあ』の懐の深さ。

「おもしろくない」を理由に書き直しを食らったことはあっても、
「問題になるとまずいから」という理由で
修正させられたことは、ついに一度もありませんでした。

(正確には一度だけ、
キティちゃんに架空のインタビューをするという内容の回で、
マネージャーをこき使ったり、
ご当地キティのことを「地方のドサ回り」と言ったり、
「ミッキー捕まえて食いたい」と言ったり…
というネタを書いたとき、
「サンリオピューロランドは広告主だから」ということで
「○キティちゃん」「サ○リオ」「ピューロ○ンド」と
それぞれ伏せ字になった、ということはあったけど、
こんなん、俺が編集者だったらテーマごと書き直させてるよ・笑)

さんりお


そして、その当時、俺の担当をしてくれていた編集者こそ、
現在の『ぴあ』の最後の統括編集長だった…という事実。

なんか、ちょっと、いい話じゃないすか?


だから、たとえ私が生粋のサゲチンとしてじわじわと
『ぴあ』の運を下げ、休刊に追い込んだ遠因だったとしても、

『ぴあ』は私にとってエンタメ情報誌である以上に、
物書きとしての原点であり、古巣であり、学校であり、

あれ以来ちっとも構ってくれなかった(苦笑)、
ちょっと厳しい恩人なのです。


そんな『ぴあ』よ、
39年間、おつかれさまでした!


おつかれぴあ!

また書きたかったですけどね!



ちなみに、最終選考で落ちたマガジンハウスの面接官の中に、
俺のことをずっと覚えていてくれた人がいて、
その人がのちに『ポパイ』の編集長になって俺に連載を持たせてくれて、
結果的に今、ポパイをメインに仕事をさせてもらってる…というのも、
なんだか不思議な縁を感じる話です。

だから、『ポパイ』休刊…という縁起でもない事態だけは、
ギャグでも不吉すぎてそんな怖いこと書けません。

(文責・福田フクスケ)
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第23回 「ノーリーズン・ノーライフ」

第23回 「ノーリーズン・ノーライフ」

…まあ、その、あれだ。
1カ月ほど、「作者取材のため休載していた」ということにしといてはもらえないだろうか。

文頭がいきなりしどろもどろで始まる。
このコラムは、そんな斬新さを常に小脇に抱えながらお送りしているおしゃれな連載である。
昔、「小脇に抱えていいのはセカンドバッグだけ!」という標語を『少年ジャンプ』か何かで読んだことがあるが、知ったことではない。
ひょっとすると、「鳥山先生の漫画が読めるのはジャンプだけ!」の間違いだったような気もするが、同じことだ。

だから、「連載を落とし続けた」という事実を、
「取材のため休載していた」というおしゃれな筋書きに無理やり書き換えても、
みんなひっそりとスルーしてくれるのではないか。
そんな期待で私の胸は今、いっぱいである。

漫画雑誌では、「作者取材のため休載します」という一文をよく見かけるが、
そもそも、連載を落としてしまうことに、理由なんてあるのだろうか。
…いや、そりゃあるだろうけど、そういつもいつも合理的で、
明確な理由で連載を落とすことなんて、ないのではないか。

中には、本当に取材している人もいるだろうが、
たいていは「締め切りにどうしても間に合わなくて」とか、
「単行本の修正作業で連載どころじゃなくて」とか、
そんな理由がほとんどだろう。

「ただなんとなく気が乗らなくて、眠くてしょうがないので寝てしまった」とか、
おもしろいことを思いつく気がしなかったので、締め切りを見送った」とか、
そんな理由だって、じゅうぶん連載を落とす理由になる。

「太陽が黄色かったから」人を殺した『異邦人』のムルソー。
「出前のカレーが辛かったから」リハをキャンセルしたYOSHIKI。
「急にボールが来たので」決定的チャンスを外した柳沢。

何かをしたり、あるいはしなかったりする理由や動機なんて、そんなものだ。
みんな、そこまで確固たる根拠や決め手があって、行動しているわけではない。

そうではなく、逆に「してしまった」「しなかった」結果の方が先にあって、
それに対して、周囲を納得させたり、周囲が勝手に納得したいがために
「落としどころ」が必要で、そのために理由や根拠は用意されるだけではないのか。

たとえば一時期、のりピーがクラゲのマネをしたり、「ぽぽぽー」と歌う
インタビュー映像が、何度も繰り返し繰り返し
トランスミュージックのように流れていたが、
そんなもの鬼の首とったように見せられても、
「ああ…テンション高いね」という感想以外に
何の判断材料にもならないのが正直なところである。
あんなんで「ヤバイ」って言ってたら、山田優の弟はどうなるんだ。

こういうのって、犬がうるさく吠えていただけなのに、
たまたま大地震が起きたから「予知した」って騒がれるのに似てないか?
犬は、本当に地震を予知して吠えていたのかもしれないが、
それはすでに地震が起きたから言えることであって、
「ほらね、やっぱりおかしかったでしょ」と言うのは
後出しじゃんけんって感じがするのな。

選挙で民主党が大勝した理由だって、
大勝した後だからもっともらしいことを言えるが、
実際のところ最大の理由は、「テレビ報道が政権交代ムードを煽っていたから」でしょ。
それにしたって、ここまで極端に大差がつくというのは、
合理的な根拠や理由では説明できないわけで、
民意がいかに気分に流されるかってことの証明にしかならない。

「あの人はB型だから…」
「彼って草食男子だし…」
「私って、朝ダメな人じゃないですか…」
「ゲイだから…」
「愛人体質だから…」
「心に闇があるから…」
「エチオピア人だから…」
「人間だもの…」

“すでにある定型文”にあてはめて
自分や他人の心を説明しようとするのは便利だが、
物事にあんまり理由や根拠を求めすぎると、本質を見失うのではないかと思う。

しかし、そうかと思えば押尾学のように、
「六本木」「女」「合成麻薬」といった
“いかにも”なシチュエーションから、
「自分だけ部屋から逃げちゃう」という
“いきがってるのにまぬけ”なニュアンスまで、
世間が作り上げた「押尾学っぽさ」の“定型文”に、
自分からぴったりあてはまってしまうような事件を起こす人もいる。

彼に関してだけは、「だって押尾学だから」という
理由ですべて済ませていいような気もするが、
彼もまた、そういった作られた「理由」の犠牲者だと言えないこともなくもない。

いずれにしろ、今日もどこかで日々、それらしい「理由」が生み出され、
その「理由」に背中を押されて、我々は行動したり事件を起こすのであろう。

というわけで、連載を落とし続けてすみませんでした。

だって…

ポケモンラリーの家族連れが……

幸せそうだったから………。
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第22回 「噛まぬなら落としてしまおうホトトギス」

第22回 「噛まぬなら落としてしまおうホトトギス」

どうも、2週間ぶりです。

ご存知の通りこのコラムは、世にはびこるデリカシーという名の
偽善と欺瞞について考える、熱血硬派な社会派コラムなのであって。

当然、その執筆者である私は、デリカシーの粋を知り尽くし、
デリケートな所のかゆみを自分で治せる、デリカシーの猛者です。
人は私のことを陰でフェミニーナ軟膏と呼んで慕っています。

しかし、やんぬるかな、そんな私も「締め切り」に対する
デリカシーだけは、すこぶる甘い。
それはもう、中学生男子の将来設計のように甘い。
その甘さたるや、「マックスコーヒーだと思って飲んだら、
福田の締め切りだった
」と勘違いされるほどである。

そして、喩えに凝るあまり、今、多くの読者を理解の対岸へ
置いてきぼりにしている気がするのですが、みなさん大丈夫でしょうか。
つまらなくてもこれが俺の持ち味なので、がんばって付いてきてください

ともかく、いくらこの連載のタイトルが
『気まぐれフクスケのぼちぼち更新コラム』だからといって、
さすがに2週連続で更新を落とすと、
『大塚ニューコーポ』での私の立場がなくなる。
ていうか、もうほとんどない。

つい先日も、8月更新予定の単発企画の制作をしていたのだが、
さまざまなシチュエーションの下、外で写真を撮るというこの企画で、
私は被写体として脱いだり裸になったり裸の上に食べ物を乗せられたり
なんだかやたらと体を張らされるモルモット的な立場だった。

なんだか最近こういう役回りが多いな…とは思っていたが、
よく考えたらこれは要するに、「言葉で笑いをとれない能無しは、
体を張って笑いをとるしかないぞ
」という戦力外通告だったのか。

やばいなあ。
じわじわと崖っぷちに追い詰められてきている気がするのよ。
周囲の顔が片平なぎさに見える瞬間だ。

差別的なことを言うつもりはないけど、現実問題として、
頭を使って笑いを取る人間は、体を張って笑いを取る人間を見くびっていると思うわけ。
つまり、知らず知らずのうちに体を張らされているということは、
マイルドにフェードをかけながら引導を渡されているのと同じことだ。
それだけは、ええいああ、なんとしても避けたい。

おもしろきゃいいとは思っているが、対等じゃないのは嫌だ。
少なくとも、裸になったり痛がったりして笑わせるのは、俺のガラじゃない。
だから今はまだ、がんばって頭と言葉を使ってコラムを書こうと思う。

とはいえ、私が締め切りや計画さえきっちり守る人間だったら、
事態はもう少しどうにかなっていると思うのだ。
なぜ、なーぜこんなにも締め切りを守れないのかなこの俺様は!
という問題は、下山事件以上に戦後史最大のミステリーなのである。

昔はそれでも、なんとかなってたのよ。
さながら窮鼠が猫を噛むように、火事場の天才的能力が発揮できる
ギリギリの「追いつめられ」のデッドラインを心得ていたもの。
それが、いつしか追いつめられすぎて、猫にのどぶえを
噛み切られてジ・エンド
になることが増えてきた。

そうなのだ。
チョロQが、一度うしろに引かなければ走れないように、
私は生まれてこの方、追いつめられることなく、
自分から猫を噛みにいったことなんてないのかもしれない。
だとしたら、ちょうどいい追いつめられ方のタイミングを
見きわめられなくなってきた勘の鈍りは、私にとって死活問題だ。

「締め切りを守って、なおかつおもしろいものを書く」ことが両立できない人間は、
「締め切りを優先させて、そこそこのものを書く」か、
「締め切りは破るけど、超おもしろいものを書く」か、
どちらかしか、生きる道がない。
そして後者の道は、売れるか偉くなるかしないと認められないのです。
人は誰もがリリー・フランキーにはなれないのですからしてー!

窮鼠にしかなれないのならば、計画的に窮鼠になるしかない。
だったら私は、「窮鼠になるテク」を磨きたい。
窮鼠初段になりたい。

誰か、『猫に噛みつく窮鼠力』というタイトルで
ビジネス書でも出してくれないでしょうか。
もしくは、『片平なぎさは、なぜ崖に犯人を追いつめるのか』という新書でもいいですから。

そんなわけで今とにかく私は、
遅れたコンテンツの更新を取り戻すために、
次の更新がさらにまた滞っていくという悪循環の回し車を、
カラカラカラカラ走っているハムスター
である。

ああ、今なら連載時の作画の乱れを単行本収録時に直すために、
本誌の連載を休んでいた富樫義博先生の気持ちがわかる。
カラカラわかる。

モルモットになったりネズミになったりハムスターになったり、
どうにもげっ歯目なキャラから抜け出せない私なのだった。
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第21回 「デブは心の病気です」

第21回 「デブは心の病気です」

この先の人生、たとえどんな事故や難病に見舞われようとも、
これだけは絶対に自分とは無縁だろうと思っているものがある。

デブだ。

まさか自分がデブにはならないだろうという強い確信があるのである。
これは何も自分の自己管理を過信しているのではなく、
それ以前に、管理しなくても太らないし、太れない体質なのだ。

生まれてこの方、脂肪がつかない代わりに筋肉もない
やせぎすの体型で、そのフォルムは限りなくエヴァンゲリオンに近いし、
胸板もベニヤのように薄く、“平成の歩く細うで繁盛記”と呼ばれている。

空から女の子が降ってきても、腕力がないので受け止めきれず、
薄い胸板をすり抜けてしまい、落として死なせてしまうだろう。
もちろん、ラピュタは一生見つからない

そんな私だから、世間のほとんどの人が強迫観念のように
抱いている「デブフォビア(デブ恐怖)」を感じたことがない。
そもそも、自分がデブになるというビジョンが思い描けないのだ。
“日本経済再生のシナリオ”のほうがまだ思い描けるくらいに、
どうすればデブになるかがわからない。

①夜遅くに②高カロリーなものを③大量に食べるという
「デブ三原則」を遵守した生活を送っているし、運動もまったくしない。
それどころか、食品のカロリー表示というものを気にしたことが、まずない。
見向きもしない。
にもかかわらず、私が常にエヴァンゲリオン体型をキープしているのは、
身も蓋もない言い方をしてしまえば、「体質だ」ということになる。
逆に、普通に食べているだけなのに太りやすい体質の人も当然いるわけだ。

で、ここで問題発生よ。
アメリカでは、太っていることを理由に自己管理能力が低いなどとレッテルを貼られ、
人事査定でマイナス評価が下されたり、リストラの対象になることもあるという。
だとすれば、私のように体型にこそ表れないが、考え方にデブフラグが立ちまくっている「心のデブ」も、同様に「問題アリ」とジャッジを下されるべきである。

ところが、断罪されるのはいつだって目に見える「フィジカルデブ」ばかり。
そんな彼らの脂肪の影に隠れて、心を肥え太らせている「メンタルデブ」が断罪されないのは、ちとアンフェアではないだろうか。

そう、デブも心の時代なのである。

そのことを象徴するかのように、
私の友人には、さして太っているわけではないのに
完全に「デブキャラ」扱いされてしまう人物がいる。
何を隠そう、大塚ニューコーポのますらおでぶ、その人である。

彼は、がっしりした体格ではあるが、
取り立てて騒ぐほど太っているわけではないし、
最近は実際にダイエットにも成功して、
数字的にはもはやまったくもってデブではない。

しかし、たとえば
「すべての食べ物の中でコーラが一番好き」
「気になるラーメン店に行くためだけに外出することを厭わない」
「激しい運動をすると、疲れるよりも先に物が食べたくなる」
「食後に水が飲みたくなるように、口が自然と菓子パンを欲する
などといった逸話の数々が、彼の過去をつつくと
肉汁のようにあふれ出すにつけても、

またあるいは、学生時代に金がなくなり、
食べ物が底を尽きて困窮するあまり、
「ティッシュにぽん酢をつけて食べた」という
伝説的エピソードを聞くにつけても、

人をデブキャラたらしめているのは、
体型ではなくその考え方にある、としみじみ思うのである。

そんな私も、人のことは言えない。
生活習慣や心がけは、間違いなくメンタルデブそのもの。
こうなったらいっそのこと、
体重55キロでありながら「デブ」と呼ばれることを目指して、
「デブは脂肪ではない、思想だ」を合言葉に日々を生きようと思う。

最近、ちょっと脇腹がついてきたような気がするのは、もちろん気のせいである。
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第20回 「残り物には汁がある」

第20回 残り物には汁がある

料理の残り汁にご飯を入れて食べるのが好きだ。

特に、カップラーメンや、ポトフなどの煮込み料理で、
メインとなる麺や具を食べ終わったあとのスープに目がない。

B級グルメにも満たないG(ゲス)級グルメであることは自覚しているが、
その反面、「一人で食事するときはみんなやってるんでしょ?」と
半ば当然のように思っていたので、私のこの食習慣に対して
「意地きたない」「貧乏くさい」と、
道端に吐き捨てられたタンを見るような目で
非難されたときには、正直、面食らった。

え、だって、汁物の料理って、その残り汁にこそ旨みが凝縮されているわけで、
具材を食べきったことは単なる通過儀礼にすぎないというか、
私にとっては「むしろここからがメインイベントだ」くらいの気持ちなのである。
汁こそが本番。
決して、AV男優の下克上の話ではない。


とにかく、私の「残汁道(ざんじるどう)」は筋金入りだ。

「なか卯」でカレーうどんを頼むときには、わざわざ単品でライスも頼み、
うどんを食べ終わった後の残り汁にライスを入れて二度楽しむ。

鶏のから揚げに甘辛い南蛮ソースがかかっていれば、
から揚げはなるべくソースを落として食べ、
余ったソースを寄せ集めてご飯を浸して食べる。

居酒屋で食べ終わった牛すじ煮込みの皿を下げられそうになると、
「まだこの汁が残ってるでしょうがあ!」(田中邦衛のマネで)と
本気で引き止めたくなり、名残惜しさを2分くらい引きずる。

家にいてカップラーメンくらいしか食べるものがないとき、
「ご飯が炊けていない」ことを理由に(残り汁にご飯が入れられない)
カップラーメンを食べること自体をやめたりする。

ことほどさように、「残り汁にご飯を浸す」は、
私にとって「ズボンに足を通す」と同じくらい自然なことなのに、
やんぬるかな、「残汁道」に世間の風は冷たい。

そもそも、「残り汁」という呼び名からして
「残ってるわけじゃねえよ」という憤りを感じてやまないのだ俺は。
「残ったのではない、残したのだ」という、
かの有名なダンテの言葉をあなた方は知らないのか。

ま、そんな言葉はないので知らなくても仕方ないわけだが、
とにかく、ラーメンに替え玉を入れることが、
鍋の最後を“おじや”で締めることが、
何の抵抗もなく当たり前のように受け入れられているのに、
なぜカップラーメンや他の料理の残り汁にご飯を入れることだけが、
こんなにも嫌悪の目で見られなければいけないのか、私には理解できない。

それにしても、なぜ私はときにわざと汁を余らせてまで、
残り汁でご飯を食べることに執着するのだろうか。
たぶん、私の中の基本思想として、
「美味いものは白飯で食いたい」という意識があるのだと思う。

たとえば、焼肉に行くと「ライスを頼んでしまうと、そのぶん肉が
食えなくなってもったいない」みたいな考え方をする人がいるが、
私の場合、たとえ肉効率(米や小麦で満腹にしてしまうのではなく、なるべく
コストパフォーマンスが高い肉で腹を満たそうという配分の割合)は下がっても、
「こんなにご飯と相性のいい肉があるのに、一緒に飯を
食べないことのほうがもったいない」と考え、ライスを頼んでしまう。

そう。
まだそれでご飯が食えるだけの味があるものを、
残したり捨てたりしてしまうのは、もったいない気がするのである。

もっと突き詰めて考えると、私は「おかずとご飯の関係」というものを、心のどこかで
「濃い味の料理は、味をご飯でうすく引き伸ばすことで長持ちさせて食べている」
と考えているようなふしがあり、だから濃い味の料理をご飯なしでそのまま食べるのは、
「味を余らせてしまって、もったいない」ということなのだと思う。

だとすると、実体のない「味」というものに対する
私のせこさ、もったいなさがり加減には常軌を逸したものがあり、
「意地きたない」「貧乏くさい」という周囲の非難も
あながち的外れではないのであった。

でも、美味しいよ、残り汁。

※近日中に、この「残り汁がうまい」という主張だけで、ONCのコンテンツを作るつもりなので、そちらのほうも動向を刮目していただきたい。
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第19回 「一発校了チキンレース」

第19回 一発校了チキンレース

ここ数週間、私がこの連載を落とすほどにしんどい思いをして
泣きながら編集していたムックの制作が、ここにきてようやく、
おかげさまで無事に一発校了で終わりを迎えようとしている。

編集者にとって「一発校了」とは、
その語感からもうすうす想像がつくように、
ダルビッシュにとっての「一発着床」と同じくらい
ジ・エンドな
恐ろしい言葉であって、

意味を知らない非・出版業界の方にあえて説明するならば、
「初めて作った料理を一度も味見をしないで王様に出す」
「ブレーキが利くか確認しないままチキンレースに参加する」
「絶対にチェンジができない出張ヘルス」
みたいなことだと思ってほしい。
厳密にいうと全く違うが、少なくとも気分的には、そんな感じだ。

要するにものすごくアクロバティック。
しかし、そのアクロバティックさ加減は、
シルク・ドゥ・ソレイユというよりは
電撃ネットワークにきわめて近いものであって、
大事なのは技術よりも、口の中で爆竹を鳴らす勇気。
そう、その「勇気」こそが一発校了に必要なものだ。

そんな、帰りのガソリンを積まない神風特攻隊のような志で、
私が一体どんな高尚な学術書を作っていたのかといえば、
インターネットの炎上や祭りといった現象の事例を集め、
その悲惨さ可哀想さあられもなさを、人の不幸を覗き見したい
野次馬精神でもって楽しもうという身も蓋もない企画であって、
当然、デリカシーもへったくれもない下衆な本である
(もちろんこれは貶しているのでなく、「下衆に徹しているから素晴らしいのだ」というフェーズが賛辞として通用する世界観や価値観があるってことくらい、懸命な読者はわかってくれるだろうと思う。実際、すごくおもしろいし、これまで自分が編集を手がけた本の中でもお気に入りの一冊だ。買え!)。

とにかく、書店で「デリカシー」と「ノンデリカシー」のコーナーがあったら、
確実に「ノンデリカシー」のコーナーの書棚に置かれるような
(めんどくさいからツッコミ不要)この本の編集作業を通して、
私が心底みなさんに残したいと思ったメッセージはたったひとつ。

みんな、ハメ撮りだけはダメ!ゼッタイ!!

あれだけ苦労したのに死ぬほどうすっぺらいメッセージしか残せなかったが、
これはでも本当に、マジで守ってほしい。

誌面では、ファイル共有ソフトがウイルスに感染していたため、
彼女や浮気相手とのファックシーンを撮影した画像や動画が
丸ごと流出してしまったカップルを紹介しているのだが、

心あるネットユーザーのたゆまぬ努力の甲斐あって、
その男女の実名や住所、勤務地が探り当てられたり、
職場に電話をかけられたり、果ては実家に押しかけて
写真まで撮られたりしておるのですよ。

恨みつらみのまったくない、あまつさえ面識すらない
一般人の素人カップルに対して、
「なに? あんたらゾルゲ?」
というほどの諜報能力を結集して素性を晒してやろうという、
ネットユーザーのその由来不明の執着心に、
身の毛がよだつを通り越して、
“身そのもの”がよだつのである。

で、そのトロピカルなマンゴーを流出させちゃった
女っていうのがまた、そこそこかわいいんだ。

…ね。

いや、なにが「ね」なのかと思うだろうが、
結局そういうことなんですよ。

つまり、「俺らよりステータスが上でリアルが充実した人間が、
かわいい彼女とこんなことしてる……ざまあみやがれ
という露骨なルサンチマンを、なんの臆面もなく
暴発させていいってことになってるのが、
炎上や祭りに群がるネット連中の下衆なところだと思うわけ。

不謹慎な発言したとか、非道徳的なこと書いたとか、反社会的なことしたとか、
確かにブログでうかつに書くほうも書くほうだとは思うし、
日記を読まれたりメールを読まれたり手紙を読まれたりするにつけても、
人は言わなくていいことをわざわざ言葉にしてしまいがちな存在であって、
人の不幸とは、「文字にしてしまう不幸」のことである、とすら思っている私だ。
文字さえ書かなければ、人類に訪れる不幸のレパートリーはかなり少なかったはずだ。

だけどね、だけどさ。

とにもかくにも、なにがなんでも、
「なんかうまいことやってるヤツがいるから足を引っ張ってやれ」
というのが、ホリエモン以降、日本人の気分を動かしている
原動力になっているような気がして仕方がない私であって、
そのはしたなさ節度のなさデリカシーのなさは、ちょっと異常だよ。

人間にホンネとタテマエがあること自体はまったく悪いことではないが、
日本人はその落差がちょっとえげつなさすぎると思う。
タテマエの壁が高すぎるし、ホンネの底が深すぎる。
身元を明かして、面と向かって言えないようなことは書くべきでないと私は思うが、
逆に言えば、身元を明かして、面と向かってさえいれば、ほとんど何でも言っていいとも思っている。

陰でコソコソするのが一番よくない。

…って、なんか、さんざん書いておきながら
ものすごく凡庸な結論になってしまったけれど、
実はそれが一番難しいのではないかとも思うのだった。
でも、一度流出しちゃうと取り返しがつかないので、
ハメ撮りだけはホント、やめたほうがいいです。
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第18回 「窮鼠、猫を噛むとは限らない」

第18回 窮鼠、猫を噛むとは限らない


またか。



と思わんでほしいのです。
先立つ不幸
先立つ不幸を許してほしいのです。

私はね、なにもお年寄りの目に優しいコラムが書きたくて、
こんなでかいフォントでお届けしているわけではないのです。
やりたいことしたい
やりたくてやっているわけではないのです。

わずか3週間のときを経て、
またしてもエマージェンシーレイアウトが
お目見えするとは、私だって不本意なのです。

でも、すまん、お手上げだ。
お手上げ

先週辺りからほとんど家に帰っていない。
週末の『SEVEN HOUSE』の撮影も、
出番と出番の間に仕事をしていた。
出番の合間
もう何が補欠なんだかさっぱりわからない状況である。

正直、胃が痛い。
痛い車
痛車よりも痛い。
いつもの私が
アゲアゲ
こんな感じだとしたら、
今の私は確実に
サゲサゲ
こんな感じだ。
むしろ、
最低のケーキ
こんな感じだと言ってもいい。
いや、いっそ
消し炭
こんな感じかもしれない。

こんなエマージェンシーな状況は、
年に何回も来るもんじゃない。
今のこの私の気持ちを、持ち得る文才をフルに使い、
筆舌を尽くして文学的に表現するとしたら、
「マジ勘弁」
である。これが今の私の限界なのである。

だから、今回ばかりはちょっと見逃してくれんだろうか。
「くせ者か!?」と言われたら、「チュー」と鳴き返しますんで、
そしたら「なんだ、ネズミか…」つってスルーしてもらえないでしょうか。

今の私は、袋小路に追い詰められて、
チューチュー断末魔をあげるハダカデバネズミです。
「窮鼠、猫を噛む」で言うところの、窮鼠です。

いつか華麗に猫を噛む日を夢見てはいますが、
噛み合わせが悪かったり、
うっかり自分の舌を噛んでしまっても、
それはそれで手打ちにしてください。

問題は、来週になったら復活しているかというと、
そんな気がちっともしないことだ。

それまで、私のことを忘れないでください。
これからしばらく、夜空に流れるほうき星を見つけたら、
それが俺だと思ってください。

たぶん、生きて帰ってきますから!


今の俺
6月4日10時50分、会社にて途方にくれる俺。


なぜ、追いつめられたネズミはネコに噛みつくのか?

なぜ、追いつめられたネズミはネコに噛みつくのか?

フォレスト出版
もう、うわあああってなるからです。

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第17回 「うつとマスクとビックリマン」

第17回 うつとマスクとビックリマン

豚インフルエンザ対策に買ったマスクを、
みなさんどこに持て余しているのか、そろそろ白状してほしいのです。
後ろ手に隠しているなら出してほしいのです。
ジャンプしたり、靴の裏を見せてほしいのです。

だってさあ、あれだけ「品切れ」とか「入荷待ち」とか言ってたクセに、
実際、街を歩いてみると、みんなびっくりするほどマスクをしてないのである。
口元、丸出しなのである。
口元丸出しで、ウヘヘヘ…ってよだれ垂らして笑ってるのである。
いや、それは春なので俺がたまたま見た幻だったかもしれないが、
せっかく買ったんなら、もっと“普段使い”してこうぜって話なのよ。

確かに、「今がまさに俺のマスクかけどき」という
ふんぎりがなかなかつかない気持ちもわかる。

だって、ここ数年のマスクときたら、
医者がオペで使うようなヒダがついていたり、
エッジの利いた「キャシャーン」みたいなイカツイものばかりで、
「なんか風邪っぽい」程度の人間が、軽い気持ちで
うかつに使うには“本気すぎる”のである。

「旅館のピンポンで本気になるなよ」とか、
「通夜ぶるまいの寿司、本気で食うなよ」とか、
本気になるタイミングを見誤ると、人は恥ずかしいことになるが、
あんまり早い時期から本気マスクをかけて、
ビビリと思われるのは避けたいというチキンレース的な思いが、
人々の心の中で未だにわだかまっているのではないか。

しかも、本来は「予防」のためにするはずのマスクなのに、
むしろマスクを装着している人のほうが「絶賛感染中」みたいな
ビジュアルになってしまうため、周囲からエマージェンシーな目
見られてしまう、という危険性もある。

しかし、人目を気にしてマスクができないくらいなら、
そもそもなんでマスクなんか買ったんだ、という話である。
する気もないマスクを買い占めるほど、人々は何を恐れたのだろうか。
「豚インフルエンザ」の「豚」って部分か。

たぶん人々が恐れたのは、「新型インフルエンザの蔓延」という、
具体的に何を恐れたらいいのかわからない
漠然とした不安そのもの
だったと思うのな。
だからそれを、「マスク」という具体的で目に見えるものを
手に入れる
という簡単な行為に置き換えて、
とりあえずの不安を解消させたのである。

これってあれな、すごく不謹慎なたとえだけど、
うつの人がリストカットするのと似てるよね。

あれはさ、抱える苦しみの正体が自分でもわからなくて辛いから、
わかりやすくこれだと言える「痛み」の場所が欲しくて切るわけじゃない。
手首切っても、本当に死ぬつもりはないのと同じで、
マスクさえ買ってしまえば、本当に使う必要はないのである。
シールさえ抜き取ってしまえば、ビックリマンチョコはもう要らないのである。

つまり、人は必ずしもチョコが食べたくて
ビックリマンチョコを買うわけではない
ってことだ。

何かは何かの代償行為。
欲望の対象がチョコではなくシールにある以上、
本当はビックリマンチョコは
ビックリマンキャラメルでもビックリマン大福でも
ビックリマンマギーブイヨンでもよかったのかもしれない。

しかしそれでは、シールに30円も50円も
払うことの後ろめたさに堪えられないから、
「あのウエハースチョコも、あれはあれでおいしかったよね」とか、
「なんだかんだ言って、あのウエハースチョコあってのビックリマンだったよね」と人は思うのだ。
否、思おうとするのだ。

だって、そう思わなければ、
自分がそのチョコだったときの虚しさに堪えられないからだ。

こと人間関係においては、
「私はあの人にとって、誰の代償物なのだろう…」
などと思いつめると死にたくなるので、やめたほうがいいと思う。

「チョコが好き」「手首切りたい」「マスク買いたい」
その表面的なニーズが、実はいくらでも入れ替え可能なことに
気付いて平気でいられるほど、私たちの日常はまだ磐石じゃない。

さて、シールを抜かれたビックリマンチョコは
捨てられて社会問題になったが、
買い占められたマスクは今、誰がどうしているのだろうか。

風呂場の排水溝に詰まっているのだろうか。
下水の片隅に浮いてたりするのだろうか。
そのうち海に流れ込み、海一面を白く多い尽くして
豊かな漁場を荒らしたり
するのだろうか。

この際だから、何か全く新しいマスクの使い方を
編み出してみるのもいいかもしれない。


猿ぐつわの代わりに。
コーヒーフィルターの代わりに。
パーティー時の紙皿・紙コップに。
超極小セクシー下着として。
いっぱいつなげて卒業式で川に流す。

ミルクをたっぷり染み込ませて揚げる。
株券として。
カツオだしで煮込んだマスクを鬼の格好で
子どもに投げつける新しい地方の年中行事として。



せっかく買ったのだから、
ぜひ有効に活用していただきたいと思う。
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第16回 「服を脱ぐようにカラオケを」

第16回 服を脱ぐようにカラオケを

カラオケは、あられもない。

少なからず私のことを知っている人なら、私がこのことをあらゆる場所で
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も、
口を漬けすぎたキムチのように酸っぱくして言い続けているのをご存知だろう。

「カラオケは、あられもない」は、
「吉野家のテイクアウトのビニール袋は妙に長い」
「松屋のカレーの味はエッジが利き過ぎている」
と並んで、私が日頃から声高に吹聴してやまない「3つの主張」のうちのひとつであり、
なぜ3つのうち実に2つが牛丼屋チェーンにまつわる話で占められているのかは
この際、不問に付して欲しいのだが、とにかくこの主張は私の中でここ数年揺るがない。

そもそも、「自分の歌いたい曲」を持っている時点でもうはしたないし、
それを自分が原曲キーで歌えるかどうか知っているのも、しゃらくさい
下手なら人前で歌うなとも思うが、逆に上手かったら上手かったで、
そこまでに経たであろう「練習していた時間」というものの存在を感じさせて、
それもまた、いたたまれない

もうすぐ没後7年になることに追悼の意を表して、
あえてナンシー関っぽい言い方をするならば、カラオケは
「自分はこういう歌を歌うキャラである」というプレゼンではなく、
「自分はこういう歌を歌うキャラだと思われたい人間である」という自意識の自己申告だ。
別にそれほどナンシー関っぽくはないし、
没後7年はもちろん何の節目でもないが、
それでもあえて言ってみた。

生きるとは、とりもなおさず自己申告の連続である。
たとえば、スーパーのレジに並ぶ人の買い物カゴには、
ありとあらゆる欲望の自己申告があふれている。

私は菓子パンの好きな人間です。
私はコーラスウォーターばかり飲む人間です。
私は今夜のおかずをコロッケにしようとしている人間です。
私は今、家のトイレットペーパーを切らしている人間です。
私はこれから生理がはじまる人間です(しかも多いです)。
私はかかとをなめらかにしたい人間です。
私はさかむけをケアしたい人間です。
私はシートで熱を冷ましたい人間です。

後半はほとんど小林製薬の商品を買っていただけだが、
ひとたび、そういう目で買い物客を見てみると、
「欲しがり屋さんの欲望ダダ漏れ最前線」といった感じで、
なーんかこっちが顔を赤らめたくなる。

ただのスーパーでさえそうなのだから、薬局!
薬局のレジ係で働いている人なんか、もうどうなっちゃうんだろう。
「うわ、この人、整髪料で毛先を遊ばせたいんだ…」とか、
「この人、かみそり負けを気にしてるんだ…」とか、
「あ、膣カンジダなんだ…」とか考えただけで、
毎日がウハウハなのではないだろうか。
そしてこの話、書けば書くほど俺が変態に見えてくるが大丈夫だろうか。

だから言わんこっちゃないのである。

…って、何が「だから」なのかわからんが、
人はこうして黙って生活しているだけで、
すでに十分すぎるほどの情報量を自己申告してしまう生き物である。
その上、何が楽しくてカラオケまでして、
自分の「自己演出のプラン」まで人にバラさなければいけないのか。

うるさい。
歌のボリュームはともかく、
その自意識がうるさい。

だから私は、やむを得ずカラオケで歌わざるを得ないときは、
「たまたま歌ってみたら上手かった」
「歌えるかどうか試しに歌ってみた」
「ネタとしてみんなにウケる持ち曲」
のいずれかのスタンスしか選ばないようにして、
カラオケが「自意識の演出装置」になることを
極力避けるようにしている。


…とかなんとか言いつつも、
頼まれもしないのにこんなブログを
いそいそ書き続けている時点で、
私だって、過剰に自己申告をしたがる自意識の
「申告したがり屋さん」であることに変わりはなく、
人生という名のカラオケをあられもなく、
高らかに歌い上げている
人間の一人である。

そう、大切なのは、そういう「含羞」の感覚だ。
私ごときが、恥ずかしい人間で、すみません。
みんながそう思っていれば、世の中の
傲慢さの目盛りが1ミリ下がると思う。
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第15回 「僕のお尻は延暦寺」

第15回 僕のお尻は延暦寺


久しぶりのエマージェンシーです。
字の大きさで、「あ、エマージェンシーだな」と判断してください。

とにかく、仕事が思うさまカツカツであって、
そのカツカツっぷりを今、「カーツ大佐」をたとえに使って
表現しようと一瞬だけ思い、すぐに思い直した私であるが、

辛うじて「カーツ大佐と言わない」という瀬戸際の
ジャッジメントだけは正しく働いたものの、
放っておくとすぐにそういう安易な、

相武紗希で「おサキにどうぞ」みたいな(警視庁交通安全週間のポスター)、
吉岡美穂で「かけてみほ?」みたいな(アートネイチャーかなんかのCM)、
多部未華子で「食べてみかこ?」みたいな(そんなCMはない)、

きわめてコンビニ感覚の、温度のひくーい
ダジャレに逃げ込みたくなってしまうほどに、
私は今、キワッキワに追い詰められている。

それはもちろん、今週終えるべき仕事が
まだ全然終わっていないからだし、
徹夜したくせにそのぶん明け方寝てしまって
プラマイゼロで焦っているからで、

こうしてキーパンチしている間も私の表情は
ダチョウ倶楽部の竜ちゃんのように涙目だし、
キーパンチしている手も実際は猫パンチのように頼りなく、
状況はほとほとパニックだ。
ワニワニパニックだ。

……いや、ワニワニパニックじゃないよ。
それくらいの客観性はあるよ。

危機一髪って言葉があるでしょ。
ないもの。
俺と危機との間に、もはや
髪の毛一本ぶんのゆとりすらないもの。
危機剃髪ですよ。

今の俺に比べたら、黒ひげなんて
全然危機一髪じゃないからね。
なんなら代わってほしいよ、黒ひげと。
樽にはまってビクビクしてればいいんでしょ?
やるよ、やりたいよそんな牧歌的なリアクション芸ならむしろ。

こちとらさあ、尻に火がついてるのよ。
尻がボボボーボ・ボーボボなのよ。
俺のお尻に延暦寺あった?くらいの
ちょっとした焼き討ち状態だから、今。
尻に住まう僧兵たちがso hey!つって踊ってますから。
踊り狂ってワニワニパニックになってますから。

だから、ワニワニパニックではないよ。

少なくともパニックではないよ。

ワニワニだよ。


……今、「そっちかよ!」ってツッコんでくれた
人がいたら、俺、100歳まで長生き。



ごめん、今週はこれで勘弁してくれ。
だからといって来週はもっとワニワニパニックに
なっている可能性もあり、予断は許さない。
…ああ、もっとまんべんなく生きてぇよう。
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