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デリカシーの機微が問われる現代社会のさまざまな局面に、ぼんやりと警鐘を鳴らす無神経なコラム。

第01回 「デリカシーには借りがある」


第01回 デリカシーには借りがある


「死ね」よりも「うざい」よりも「金髪豚野郎」よりも、ひょっとして「君、デリカシーないよね」という非難のほうが、人をもっともエッジの利いた角度で深く傷付けるのではないかと、私は最近思う者である。

「死ね」という真っ向からの全否定は、罵倒として直球すぎるぶん、かえって「命丸ごとキックオフ!」みたいなスポーツ少年のような体育会系のすがすがしさを感じるし、「うざい」というフレーズに漂う生理的嫌悪感には、理解してもらうだいぶ手前の段階ではじかれているような「取り付く島のなさ」を感じて、「いいよ、だったらわかってくれなくて」と潔くあきらめもつく。「金髪豚野郎」にいたっては、ただの有吉だ。

ところが、「デリカシーがない」は、ただの非難というよりも、人格にまで一歩踏み込んでいるぶん、批判としてよりシビアだ。途中まで歩み寄れているのに、人間として肝心なところでだめを出されているような気がして、「妙に傷付く」のである。
今まで笑いながら私と話してくれていた人が、その笑顔を1ミリも崩さぬまま「でも君、惜しいね」と言ってきたみたいな、ひどく不意打ちの辻斬りのような批判なのである、「デリカシーがない」ってやつは。

そんなデリカシーと私との関係は、ここのところすこぶるよくない。
かつては違った。デリカシーと私は、お互いを兄弟のように慕いあう仲間であった。特に気を使わなくても、いきなり電話で呼び出して飲みに行けるような、旅行のお土産はウケ狙いのご当地キューピーでOKみたいな、デリカシーとは割と、そんな関係を築けていたような気がするのだ。

それがいつからだろう。「社会人」というたすきをかけて街をカッポカッポと闊歩するようになったあの日から、デリカシーはなにやら私と微妙な距離をとりはじめた。
今までガード下で肩を組みつつ朝までおでんとカップ酒でよろしくやっていたはずのデリカシーが、ここにきて「それはちょっと…」と組んでいた肩をはずしにかかってきたのである。こちらとしては「えー…!」という話ですよ。

私が「よかれ」と思って、いや、「よかれ」は言いすぎか、言いすぎだな、「よかれ」と思うほど善良ではないにしろ、百歩譲って「おもしろかれ」と思ってやってきたことや言ってきたことが、このごろ、世間的には「デリカシーがない」こととしてカテゴライズされはじめたのだ。
ちょっと待てよと。
ちょっとそんな、いきなり態度をコロリと変えられてもアタシわかんない、という話だ。「あなた、デリカシーとアタシとどっちが大事なのよ!」みたいな。めまぐるしい事態の変化に、心はもう面倒くさい女のメンタリティなのである。

悪いけどね、私はデリカシーのことを誰よりも考えている人間であると自負しているわけよ。
考えすぎて入り組んだ迷路に入り、一見デリカシーがないように見えることもあるが、それはデリカシーのほくろの数も知っている間柄であるからこその、なんというか、「こなれた関係」なのだと解釈してほしい。
デリカシーをわかっているからこそ、「デリカシーのないこと」とは何かがわかるのだ。
例えば私は、「デリカシーのないことをせよ」と言われたら、すぐさまその例を10個や20個は思い浮かべることができる。

「スーパーフリーチベット」と書かれたTシャツを着て、天安門広場を「すごい! やばい! 間違いない!」と言いながら練り歩くとか。
生理用ナプキンの上にチャンジャを盛り付けて食うとか。
ビンラディンがキリストのコスプレをして十字架に磔になってるとか。
あと、園遊会でハメをはずした陛下が、お尻を出して「菊のご紋章…(以下自粛)」とか。

でもね、私に言わせれば、これらはただ「おもしろい」だけであって、「デリカシーがない」とはだいぶ違うことだと思うのな。「おもしろい」ことの前で、デリカシーがどうのこうの言うのは、野暮で無粋ではないだろうか。
なのに、そういうことに目くじらを立てて眉をひそめる人は、きっといる。割といる。

いや、そういった「おもしろい」ことに対する世間様のデリカシーは、年を追うごとにかえって狭く厳しく、ますます窮屈になっていやしないだろうか。
誰だよ、「世間様」って。
そんな奴、見たことねえよ。俺の前に現われて、姿を見せてから偉そうなこと言えよ。「様付け」されるほど、そんなに偉いのか世間って奴は。お前なんか、「世間ちゃん」だ。おしゃべりクソ世間野郎だ。
むしろ、後ろ盾にした「世間」の影に隠れて大きな顔をしながら、さも自分が正しいかのように無粋をふりかざす奴。そういう奴のデリカシーこそ、大きく欠けていると言わざるを得ない。私は、そう声高に主張したい。

delicacy

だめかなー。
だめなのかなー、そういうの。
もしかすると私は、これまで世間ちゃんが求めてきたデリカシーを、履き違えて生きてきたのかもしれない。「親戚のお通夜にサンダルをつっかけて来ちゃった」みたいな、それくらいの「履き違え方」だ。
それでも履き違えたまま、これまではなんとか許されてやってこれたのに。許されて許されすぎて、私はデリカシーに前借りをしすぎたようだ。
そろそろ、その大きな借りを返さなければいけないときがきた。

そう、デリカシーには借りがある。

だから私は、「デリカシー」という名の強迫観念が伝家の宝刀のごとく幅を利かせ、そびえ立つ巨大なモノリスのようにゴゴゴゴと音を立てて私たちの背中にプレッシャーを与えている、そんな世の中に警鐘を鳴らしたい。
現代にはびこる過剰なまでの「デリカシー」ともういっぺん話をつけて、あいつと対等になりたい。あいつに貸しを作りたいのだ。

そして、「俺さあ、デリカシーには貸しがあるんだよね」と言って、いつかガード下でもう一度、あいつと肩を組んでお酒が飲みたいのである。

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